ゴッホ

今年の冬は、冬とは思えない暑い日があれば、冬らしく冷え込む日もあり、その寒暖差がちょっと記憶にないぐらい激しくて、体調管理が非常に難しいですが、皆さんは大丈夫でしょうか。私は、風邪をひくまでではないものの、時折、ゴッホ、ゴッホと咳が出ます。ゴッホといえば―――――うーん、あまりにもくだらない低レベルの駄洒落ですいません。今回は画家のゴッホの話です。自分で書いてて恥ずかしくなるな。

いや、恥ずかしいなら書くなよ、とお思いでしょうが、まあそう怒らずに。かの有名作家・浅田次郎先生は、とあるエッセイの中で、「ステキなステーキ」とステキな駄洒落をぶちかまし、こういうのを恥ずかしげもなくぬけぬけと書くのは私ぐらいだろう、とのたまった。これを読んで考えた。そうか、くだらない駄洒落も平気で書ける面の皮の厚さが、文章を書く人には必要なのかもしれない、と。言い換えれば、厚顔無恥こそが作家の資質の1つである。とまでは言い過ぎか。

そこで私も、敬愛まではしてないが、作品は好きでほとんどの著書を読んでいる浅田次郎先生を見習って、小学生レベルの駄洒落で今回のブログを書き始めてみたものの、やっぱり失敗だな。くだらない駄洒落も名のある作家が書けば文芸となるが、いかんせん私のような素人に毛が生えた(頭髪は生えないが)程度のライターだと、くだらない駄洒落はくだらないまま。であることがよくわかった。ゴッホゴッホ。

失礼仕りまして、最初に戻る。今回はなぜ、ゴッホかというと、先日、新宿の「SONPO美術館」で現在も開催中の『ゴッホと静止画 伝統から革新へ』と題する展覧会へ行ってきたから。その前は上野の東京国立博物舘へ2週連続で行ったが、今度は美術館である。今年の秋は、思いがけなくも高尚な“芸術の秋”を満喫してますなあ。柄にもなく。

ゴッホは、オランダのポスト印象派の画家。オランダ語で「Vincent Willem van Gogh(フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ)」と書く。Vinsentだから私はヴィンセントだと思っていたが、オランド語ではVinはヴィンではなくフィンとを発音するらしい。略してフィンセント・ファン・ゴッホ。略するならフィンセント・ゴッホでもよさそうだが、オランダ人名のファンはミドルネームではなく、姓の一部であるため省略しない、そうです。

ゴッホは1853年3月30日、オランダ・北ブラバント州フロート・ズンデルトで牧師の家に生まれる。幼少時から癇癪持ちで、兄弟(長男で弟が2人と妹が2人いる)の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。15歳で学校を中退し(理由は不明)、16歳で画商グービル商会のハーグ支店の店員となり4年間を過ごす。この間に美術に興味を持つが、1873年にロンドン支店へ転勤(表向きは栄転だが実際は素行不良で追い出されたらしい)してからは、宗教への関心を急速に深めてゆく。

1875年、パリ支店へ転勤となり、翌年解雇される。クリスマス休暇を取り消されたにも関わらず無断で実家に帰ってしまったことが解雇の理由の1つとされている。その後、イギリスで教師になったり、オランダの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強をはじめるが、難しくてついていけず挫折。その後、ベルギーの炭鉱地帯ボリナージュ地方で貧しい人々に聖書を説く伝道師として活動するも、理解を得られず断念。父の仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごす年金生活者のような生活を送る。が、仕事をしていないことで家族から批判され、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出たのが1880年の3月頃。お金も食べ物もなくひたすら歩き回るなど、常軌を逸した傾向を憂慮した父が精神病院に入れようとしたことから口論となり、仕送りを止められる。ここから弟のテオから生活費の援助がはじまる。画家を目指す決意をしたのもこの頃のようだ。

以降、オランダのエッテン、ハーグ、ニューネン、ベルギーのアントウェルペンを転々としながら画作を続ける。テオの援助を受けながら。オランダ時代は貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多い。今回のゴッホ展でも、タイトルはわからないが、骸骨を描いた静止画があり、これがやけに暗くて陰鬱で、とてもゴッホの絵とは思えない。というか、ゴッホもこんな絵を描いていた時代があったんだなあ、と意外だった。

いかにもゴッホらしい、明るい色調の絵を描くようになったのは、1886年、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けてから。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている。1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などを描く。同年10月末にポール・ゴーギャンとの共同生活をはじめるが、性格が合わず、わずか2カ月ほどでゴッホの耳切り事件により破綻。以降、アルルの病院や療養所へ入退院を繰り返しながら画作を続けるも、1890年7月27日、パリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズにて銃で自らを撃ち、2日後に死亡。自殺とされているが、他殺だという異論もあり、真相は藪の中である。

以上はウキペディアの文章をかいつまんだもの。もっと詳細な、それこそ微に入り細を穿つような情報がウキペディアには掲載されており、ゴッホの生涯はこれを読めばほぼわかるので、皆さんもご覧ください。それにしても、この人、よくもまあ、家族も含めた周囲の人と喧嘩したり、問題を起こしたり、迷惑をかけたり、そうした揉め事がとにかく多い。さぞかし嫌われ者だったんだろうなあ。こういう人がもし身近にいたら、絶対に関わりたくないよね。いわゆる奇人変人だったのだろう。

それに挫折や失恋も人一倍多く経験しており、どうやら生きるのが下手な人であったことが伺える。いうなれば、絵を描くことの他には何の取柄もないような。しかし、だからこそ、凡人には描けない絵を描けたわけで、有名な『ひまわり』や『アイリス』まではまだいいが、晩年に描いた『星月夜』や、ヒマワリとともに彼の需要なモチーフである『糸杉』を描いた一連の作品群などを観ていると、あくまで私の偏見であるが、この画家はもはや奇人変人を超えて、狂人の域に達している、と思う。

私はかなり昔、なにかのテレビ番組で、ゴッホが描いた宿屋かなんかの建物の絵と、その実物の写真を並べて見比べたことがある。その時に思った。目に入るなんでもない風景がこんな感じに見えるとしたら、もう正気ではいられないだろう、と。それぐらい、なんでもない普通の建物がゴッホの手にかかれば、炎の如く燃えて揺らめき、命を宿す。それを見たのがいつだったか、何の番組だったのかも全然覚えていないが、そのインパクトだけは強烈に記憶に残っている。

ゴッホは小説や映画などでしばしば“炎の人”と称されている。これは言い得て妙で、まさしく色彩の炎を操る狂人、それがフィンセント・ファン・ゴッホである。まあ、私が力説するまでもないけどね。彼が起こした数々の常軌を逸する行動を知る人なら、ゴッホ=狂人説に異論はないだろう。

今回のゴッホ展では、習作とみなされる初期の作品から、印象派の影響を受け次第に色彩豊かになっていく過程、そして代表作かつ同展の目玉でもある『アイリス』と『ひまわり』という大輪の花を咲かせるまで、その変貌ぶりが見えて大変興味深かった。合わせて、マチスやルノワールなど同時代に活躍した画家の作品も展示。ゴッホと比較できて面白い。

ゴーギャンなんか、ゴッホと同居した頃は借金まみれだったそうで、ゴッホほどではないにせよ、かなりヤバい人であった、らしいことを私は今回初めて知った。恐らく、それまでは王侯貴族などパトロンの庇護の下、お抱え絵師になったり、注文を受けて描くなどしかなかった画家という商売が、多分、歴史上で初めて、自分が描きたいものを描いた絵を売って、飯が食えるようになった、そんな時代だったのだろう、ゴッホが生きた時代は。芸術というものの価値観が、支配階級から一般大衆へと移行した時代、ともいえよう。そんな時代だから、売れる画家と売れない画家との貧富も含めた格差は、現代よりも想像以上に大きい、ということは想像できる。あ、想像がダブったな。

それでいうと、生前のゴッホは明らかに売れない画家で、弟・テオの援助なしには生活できなかった。というのは有名な話である。私は、ゴッホの生前は絵が一枚も売れなかった、と聞いていた。が、調べてみると、じつは一枚だけ、『赤い葡萄畑』と題する作品が展覧会で初めて、400フランで売れたという。他にも売れた作品はある、という説もあり、まったく売れなかったわけでもないことを今回初めて知った。よかったね。400フランが現在の価値でいくらぐらいなのかわからないけど。

さらに、じつはゴッホが自殺する少し前の晩年から、彼の作品の評価は次第に高まりつつあったことも今回初めて知った。ということは、もう少し長く生きていれば、絵が売れて収入もウハウハ、それまでの貧困生活から一発逆転、売れっ子画家の仲間入り、をした可能性もあったわけだ。残念でしたね。

しかし、それより可哀そうなのは、弟のテオだ。生涯にわたって兄・ゴッホを援助し続け、時折関係が悪化しても(援助してもらっているくせに!)、仕送りを止めなかったテオだが、ゴッホの自殺後まもなく、後を追うように亡くなっている。

テオだってもう少し長く生きていれば、ゴッホの遺作がどんどん売れて、仕送りしたお金の何十倍?いや何百倍?とにかく信じられないほどの膨大なリターンを得ることができただろうに、残念無念。

お金の話のついでにいうと、同展の目玉の『アイリス』は、1987年、ニューヨークのサザビーズで5390万ドル(約72億7600円)の値をつけている。その隣に並んでいた『ひまわり』は、同年ロンドンのクリスティーズのオークションで、当時の安田火災海上保険、現在の損保ジャパンが2475万ポンド(約58億円)で落札したのを覚えている人も多いだろう。この2枚が並んで展示され、しかもなぜか写真もOK、だったのだから、考えてみればすごい展覧会である。皆さんも行ったほうがいいですよ。たしか来年1月21日まで開催してますから。

ちなみに、現在のゴッホの絵の最高価格は、1990年のオークションで落札された『医師ガシェの肖像』の8250万ドル(約124億5750万円)。当時、大昭和製紙名誉会長だった斎藤了英氏が購入したが、現在はその行方が知れないという。そんなことがあるのか?とも思うが、まあ、多分、借金のカタに表に出せない金で買われたか、盗まれたか、そんなところで地下に潜っているんでしょう。見つかったら大変な騒ぎだろうな。

『アイリス』は1889年、ゴッホがフランスのサン・ミレ修道院のサン・ポール・ドゥ・モウソーレ病院に入院していたときに描いた作品の1つ。彼の特徴である炎のような描写は影を潜め、日本の浮世絵の影響も感じさせる。ゴッホは絵を描き続けることで、どんどん頭がおかしくなってくる、と感じはじめていたので、この絵を“病気の避雷針”と呼んだそう。これ、良いエピソードなのか、悪いエピソードなのか、よくわかりませんが。

『ひまわり』は、1888年から1890年にかけて描かれた、花瓶に生けられたヒマワリをモチーフとした複数の絵画の1つ。そのシリーズの総称でもある。ゴッホはヒマワリを南仏の太陽、ひいてはユートピアの象徴と捉えていたようで、アルル時代に盛んに描いたものの、精神病院での療養がはじまってからは描いていない。療養中はさすがに明るい太陽を描ける精神状態ではなかったのだろう。

他にもゴッホや彼の絵について書きたいことはたくさんあるが、まあ、私が偉そうに書いたところで、所詮、インターネットの情報をかいつまんだだけ。調べれば誰でもわかることなのでこれぐらいで止めて、話はゴッホ展での観覧後に行った、いわゆる新宿飲みに移る。

最初に行ったのは、「思い出横丁」。有名だから詳細は省くが、ざっくりいえば、戦後闇市の雰囲気を色濃く残すディープスポットである。かつては「しょんべん横丁」と呼ばれていたのを知る人はもう少ない。

私はしょんべん横丁、もとい、思い出横丁は久しぶりだったが、相変わらず活気あったなあ。まだ日が高いうちから飲んでいる人も多くて、すっかりコロナ前の風景が戻っていた。また、ここでは以前から外国人の姿をよく見かけたが、外国人観光客数がコロナ前を超えた、と報じられた現在、外国人はますます増えているようだ。

この日もほとんどの店は満席だったが、2~3軒回って線路側にようやく空いた店を見つけて着席。刺身やもつ煮などをつまみに日本酒を飲んだ。卵焼きも美味しかったな。酒は福岡県の「三井の寿」。ご存じの方も多いだろうが、漫画スラムダンクの登場人物の1人、三井寿の名の元となったとされる酒である。私もスラムダンクファンだから当然知っていたが、まさかこんなところで会えるとは思わなかったし、三井寿の背番号14のラベルを貼った実物は初めて見たので嬉しかった。その味は・・・正直にいうとよく覚えていない。他にも色々飲んだからね。でも、まあ、すっきりした美味しいお酒でした、多分。

続いて内側の細い路地に入り、たまたま空いていたカウンターだけの狭い店に潜り込む。ふと見ると、「NO!English」との文字が。ここだけ空いているのはそのせいだろう。この店では焼鳥などを食べたと思うが、よく覚えてない(忘れてばっかりですいません)し、ママの接客もそっけなかったので、割愛して、次行こう。

次は「思い出横丁」から離れ、道路を挟んだ向かい側に渡る。このへんに昔、結構シブいバーがあったのを思い出して(思い出横丁だけに)、そこへ行こうと思って探したのだが、わからない。なにしろ私が某夕刊紙に勤める前、ということはもう30年近い大昔の話だから、無理もない。

仕方がないので、昔行ったバーではない、別のバーを見つけて入る。そこも雰囲気はなかなか良かったが、外国人(どこの国の人なのかは聞いたけど忘れた)の兄ちゃんがつくったカクテル(ギムレットだったかな?)が妙に不味かった。甘ったるいシロップの味しかしなくて、冷えも甘い。

カクテル(ギムレット)の画像

これで火がつき、もっと美味いカクテルを飲みたくなって、わざわざ新宿駅の東側、スタジオアルタの裏あたりまで行って入ったのが、「サントリーラウンジ イーグル」という名のオーセンティックバー。路面の入口から地下へと続く階段を降りれば、降りる途中から、豪華客船のロビーをイメージしたラグジュアリーな大人の社交場、といった雰囲気の店内がぱあっと見渡せる、昭和レトロな老舗バーである。地下だけど天井が高いので地下とは思えないゆったりした空間がいいねえ。

ここは私が某夕刊紙の記者時代、営業の人に連れてきてもらったのだが、さすが、営業マンは良い店を知ってるなあ、と感心したものだ。それから恐らく20数年ぶりの来店となったこの日、階段を降りると店内は満席だった。しょうがない、出直すか、と思ったらなんと、そのフロアのさらに下、つまり地下2階に通されて驚いた。

うかつにも私、ここは地下1階と地下2階の2フロアあることを知らなかったのだ。なにしろ2,3回ぐらいしか行ったことがなく、地下1階にしか座ったことなかったからね。ちなみに同店のオープンは1966年。なんと私とタメだ。そうとわかると余計親しみが増す。開店して57年を経た今頃まで2フロアあることを知らなかったうかつ者だけど。それにしても、こんな良い店がコロナ禍も乗り越えて営業を続けていることが嬉しい。

早速、ギムレットはもちろん、ダイキリやXYZなど何種がカクテルを飲む。どれもキリっとしてさすがの味。先ほどの店とは比べものにならないほど美味しい。皆さんにもぜひ飲み比べをしていただきたい、と思う。

これは過去ブログでも書いたことはないと思うが、私は学生時代のバイトでバーテンをやっていた経験がある。しかも結構長期間やっていて、カクテルは一通りつくれるし、今でもレシピさえ思い出せばつくれる自信がある。なのでカクテルについては―――いや、この話も長くなるのでここでは止めよう。今回のブログのタイトルはゴッホで、すでにゴッホの話が長くなっているからね。いつものことだけど、今回も文章長くてすいません。カクテルの話はまたいずれ。その機会は必ずある、と予告しておこう。

あ、言い忘れたけど、「サントリーラウンジ イーグル」でカクテルを楽しんだ後、〆に「桂花ラーメン」を食べたことも一応追記しておく。ここのラーメンも「イーグル」と同じく超久しぶりだったが、懐かしくて美味しかった。それにしても、何軒かハシゴした後に〆のラーメン。若い頃なら平気だが、この歳になると、さすがに食べ過ぎだな。軽く食べたけど。かくして腹一杯、大満足の新宿飲みは終了。さて、次はどこで飲もうか。