老老介護

老老介護

先日、遠方に住んでいてめったに会わない兄から、珍しく電話があった。ちょうどその時、皆で集まって飲んでいたので、うるせえなあ、と思いつつも、何か用事がある時にしかかけてこないのはわかっていたので、しかたなく出ると、「お母さんが施設に入ることになった」という。

私は兄と妹の3人兄妹で、3人ともとうに実家を出て家庭を持ち(私だけ離婚して独身だが)、実家は父と母の老夫婦2人暮らしになって久しいが、今年でたしか89歳の母親がそろそろ呆けはじめている、というのは、妹がたまに寄越すLINEで知っていた。その介護を87歳の父親が1人でやっていることも。いわゆる“老老介護”である。

“老老介護”とは、説明するまでもないと思うが、簡単にいえば、高齢者の介護を高齢者が行うこと。この場合の高齢者は65歳以上を指す。現在の日本は、老年人口と呼ばれる65歳以上の高齢者の割合が25%超。つまり全人口の4人に1人が高齢者という超高齢化社会だから、必然的に老老介護せざるをえない家庭も急増中。同時に、認知症の高齢者が認知症の高齢者の介護をする、“認認介護”も増えている。“認認介護”が“老老介護”よりもさらに深刻な状態であることは言うまでもない。

私の実家の場合、介護する方もされる方もともに80歳代後半だから、それこそ超がつく“老老介護”ではあるが、幸い父親はまだ呆けてないので、“認認介護”ではない。とはいえ、老年であることには違いないので、1人で呆けてきた妻の介護をするのもそろそろ限界、ということだろう。

それまでは実家からクルマで2時間ぐらいのところに住んでいる妹が、しばしば実家へ帰って両親の世話をしていたらしい。それはいいのだが、遠方にいて何もしない兄(私のことです)に腹を立てているらしく、時折、「たまには帰って来い」とか、「電話ぐらいしろ」などと私にLINEしてくる。

母親は3人いる子供の中でもなぜか、自分でいうのもなんだけど私のことが一番好きで、周囲にもそのあからさまな態度を隠そうとしない。それはもう、当の私でさえ、同じ子供なのにえこひいきはいかんよ、と言いたくなるほどで、妹なんか、「お母さんはいっつも世話しようアタシより、何もせん兄ちゃん(私のことです)の方が好いとっちゃけん」(博多弁です)とブーたれているし、以前私が帰省したときは、たまたま居合わせた兄の嫁、つまり義姉から、「私が来てもなんも喜ばれんのに、○○さん(私のことね)はたった1日帰って来ただけで、こげんお義母さんに喜ばれて、よかねえ」と、半ば呆れながら言われた。

私が離婚して1人暮らしになってからは、毎週のように電話をかけてきては、「あんたの心配ばっかりしようとよ」と、同じことを何度も繰り返していた母。まあ、私が一番可愛い、というよりは、子供の中で一番心配かけているのが私、というのが本当のところだろう。しかし、そんな母からの電話も次第に間が空くようになり、最後の電話では、「いま大隈におるとよ」という。大隈とは、母が生まれ育った、母にとっての実家である。

するとすぐさま父が電話を代わり、「大隈やら行っとらん。ウチにおるとに、言いようことがおかしかろうが」だって。後で聞けば、その頃からしきりと大隈の話ばかりするようになった、そうだ。認知症になると、自分の夫や子供のことは忘れるが、自分が子供だった頃のことは忘れず、その頃の話ばかりするようになる。というのは、私が勤める介護施設のお婆ちゃんたちにもよくみられる現象である。つまり、母はもうすでに立派な(というのも変だが)認知症、ということだろう。

で、そんな母を施設に入れることになった、というのが兄からの電話だった。入居の時期はまだ未定。要介護認定が下りるのを待って、下り次第入居する、とのことで、早ければ半月後には入るかも。だから母ちゃんが施設に入る前に、おまえも一度帰って来て、顔を見せてやれ、という。グズグズしてると母ちゃん家におらんごとなるぞ、と、穏やかな兄にしては珍しく脅すようなことも言ってきた。

どうやら、LINEしても既読スルーの私(悪いとは思うが面倒臭くてねえ)に業を煮やした妹が、長兄の言うことなら聞くだろう、と差し向けたらしいことは容易に察せられる。べつに私が長兄には頭が上がらない、とか、苦手だとか、そういうのはない。兄弟仲は良いとは言えないが、普段はほぼ音信不通のくせに、ごくたま~に、何か頼みごとがあるときだけ連絡する、横着な弟の頼みごとは今まで一度も断ったことがない、優しいといえば優しい長兄なので、ここは素直に、わかった、帰る、とだけ返事をした。

といっても、さすがにすぐには帰れない。バイトだってシフトの調整をしないと、ドタキャンすれば迷惑かけるからね。その間も妹から、「帰って来るなら前もってお父さんに電話してください」とか、「帰って来ても兄ちゃんの世話はできんけんね」などとLINEがガンガン来たが軽く無視して、バイト休んだらまた収入減るじゃん、飛行機代だってかかるのに、とぶさくさ言いながらも1週間ほど休みをとった。

私が今やっている清掃の仕事は、今は木金の週2日しか入っていないが、休めば2日分きっちり給料が減るのは、非正規雇用の悲しさよのう。その点、介護施設の方は、同じく非正規雇用なのに、有難いことに有休が使える。施設長にはシフトを1週間ほど空けてほしい、と言っただけで、有休を使いたい、とは言ってないが、勝手に気を利かせて有休を2回入れてくれた。ありがたや。但し、有休に夜勤手当まではつかない。じつはこの夜勤手当が結構デカくて、私は夜勤手当があるから夜勤をしている、といっても過言ではないのに、それだけは残念である。

飛行機代も結構かかる。貧乏な私は当然、格安航空券を探すわけだが、羽田空港発だと安くても1万2千円以上。だが、成田空港発なら最安6千いくらであることが判明。よしよし、とほくそ笑むも、よくよく見ると、その空券は日時の変更が不可である。なのでギリギリまで買うのを待っていると、案の定、急遽ライター仕事が入った。もし休みをとった初日の航空券を買っていたら、変更不可なので無駄になるところだった。危なかったなあ。

結局、休み2日目の航空券を、最安の6千円は時間が合わず(成田空港なのであまり早朝だと間に合わず、あまり夜遅いと福岡空港からの足がない)、午後イチぐらいの便のチケットを7千いくらで買った。はずなのに、ネットで決済すると1万を超えている。あれ?と思って調べると、なんと手数料が3千円だと。ふざけんな、じゃあ他で買う、と、他のサイトをみても、やっぱり、どこも手数料としてそれぐらいとるらしい。やむを得ず1万いくらで買ったが、往復で2万円超。貧乏人には辛いが、こればっかりはしょうがない。やれやれ。

福岡空港

かくして、空路福岡へ。福岡空港へ着いたら、空港近くにある有名な天ぷら屋に行こう、と思い、空港から少し歩いたが、場所がわからず断念。いや~、空港から歩いてすぐだと思っていたが、実際は結構離れていたようだ。私の記憶なんてあてにならんなあ。そこで意地でも歩く根性はなく、あっさり諦めて空港に戻り、JR博多駅へ移動。地下鉄でわずか2駅という近さが福岡という街の利便性である。博多駅で久しぶりの博多を味わおうと、店を探してウロウロする。久しぶりの博多駅は、私が知っている昔の博多駅とはずいぶん変わっており、まるで知らない駅のようだ。

私の実家は博多からもかなり離れた、福岡市と北九州市のほぼ中間のド田舎で、とにかく交通不便なので、一度実家に戻ると、ちょっと飲みに出る、というのができない。従って博多で飲んだり食ったりできるのは行きがけと帰りがけの2回だけ。だから、適当な店に入って失敗したくない。と思い結構歩き回った末、博多駅に隣接しているバスセンターのレストランフロアで、とり皮串が名物だという店をみつけた。

鳥の皮を普通に串に刺すのではなく、ぐるぐる巻きに刺すというより巻きつけたとり皮串が博多名物となったのは、もうずいぶん前のことで、東京にも何店か進出している。もともととり皮好きの私は、いつか食べたい、と思っていながら、なかなかその機会がなかった。そこで、よし、ここだ、とその店に入り、生ビールとともにその名物のとり皮にかぶりついた。が、うーん、なんか、普通だなあ。不味くはないが特別旨くもない。第一、テレビで見た元祖・とり皮串は、タレにどっぷりつけていたように思うが、これは揚げてカリカリしている。博多名物というから、博多で食べればどの店でも同じだろう、と思っていたが、どうやら店によって違うらしい。ちゃんと調べるべきであった。

少々ガッカリして店を出て、エレベータを降りると、「牧のうどん」があった。おお、これこそ私が昔よく食べていた、懐かしの味だ、と思いつつ、入ってごぼう天うどんを食べる。あれ?なんか不味いな。粉っぽくてネチャネチャしている。昔の牧のうどんは旨かった、という記憶しかないが、これはどうしたことだ。店の味が落ちたのか、たまたま作る人が下手だったのか、わからないけど、どうしようもない。まあ、残さず食べたけどね。

かくして、久しぶりの博多の味は期待外れだったが、気をとり直して、電車に乗った。鹿児島本線上り門司港行。私が通った高校は博多駅の隣の吉塚駅が最寄りで、博多駅も徒歩圏内だったので、この電車は私が高校生の頃は毎日のように乗っていた通学電車である。が、今は電車が新しくなっているのはもちろんのこと、私の上京後に新しい駅がいくつもできており、それに伴い、昔は普通と快速しかなかったのが、今では特急や特別快速なども増えて、電車も博多駅と同様、懐かしさはない。帰ってきた、というより、旅行にでも来たかのような感覚である。

実家の最寄り駅も、昔は「赤間駅」で、自転車で20~30分ぐらいかけて通っていたのが、今はその隣に「教育大前駅」というのができて、少し近くなっている。それでも、「教育大前駅」から自転車だと10分ほどだが、歩けばやっぱり20~30分かかるので、不便なことに変わりない。今でも帰るたびに、つくづく、こんな不便なとこによく住んでいたなあ、と思う。高校時代、これだけ遠い高校に毎日通っていたのがウソのようである。ちなみに、「福教大」は福岡教育大学のことで、武田鉄矢の母校としても知られている。

この日も昔はなかった特別快速に乗って、「赤間駅」で降り、普通に乗り換えて、「教育大前」で下車。以前なら父にクルマで迎えに来てもらっていたが、高齢の父の運転は心配なので、迎えは要らない、と言ってある。バスという手もあるが、どうせ本数も少ないので、テクテク歩いて実家まで。駅や電車は様変わりしていて懐かしさはないが、この辺まで来ればさすがに昔と変わらない風景もあり、やっと懐かしさがこみ上げる。が、やはりこんな田舎でも新しい道ができたり、飲食店なんかなかったところに店があったりして、変わったなあ、とも思う。

実家へ着くと、母はいなかった。なぜか父が電気もつけずに風呂に入っていた。聞けば、母は施設に泊っている、という。なんでも、今月いっぱいは木金は施設に宿泊(ショートステイというのかな)、月~水は昼間だけ施設に通い(デイケア)、土日だけ家にいて、来月の初めからいよいよ入所。以降はずっと施設で過ごすことになる、らしい。この日は木曜だったので、母は施設で、家には父1人、だったわけだ。

私が勤めている介護施設でも、いきなり連れて来られた入居予定者が、入居はイヤだとゴねたり、入居してからも、家に帰る、とただをこねるのは、よくあることだ。そのため、入居前にデイケアやショートステイを何度か繰り返して、少しずつ慣れさせていく、というのは良い作戦だと思う。私の母も、入居はしたくない、とごねるのではないか、心配だったが、その点は大丈夫のようだ。

その晩は父と2人、夕食は博多駅でうどん食べたので腹は減ってなかったが、せっかく父がつくる、というので、甘えることにした。父の手作りの料理を食べるなんて、恐らくこの歳になって初めて、である。というのも、福岡の男は、男子厨房に入らず、などと嘯いて、まったく料理をしない人が多い。うちも母がほとんど専業主婦だったこともあり、料理はもっぱら母の役目。父が料理をしていた記憶はない。ところがその日、意外にも手慣れた様子で父がつくったのは、有り合わせの簡単なものには違いないが、一応鶏肉を焼いて、茹でた野菜を添えて、味噌汁までつけて、栄養バランスも良さげな、ちゃんとした食事であった。どうやら母に代わって父がご飯の支度をするようになって長いようだ。

翌日の金曜日、施設へ母の面会に行った。1日待てば家に帰ってくるが、どんな施設か見ておこう、と思ったから。もともと山林を切り開いて造成された住宅団地のさらに山間のどんずまり。よくもまあ、こんなとこに建てたなあ、と思うような施設は、中へ入ると意外に広く、人もたくさんいて、それなりに賑わっていた。それにしても、実家からこんな近くに、こんな施設ができていたなんて、知らなかったなあ。

職員に支えられ、杖を突きながら面会の場に現れた母は、一瞬、誰だかわからぬほど変わっていた。もとは丸顔だったのが痩せて面長の猿顔になっていた。母も私が誰だかわからぬようで、挨拶もせず無言で席につく。それでも、父が、「ほら、○○たい」と私の名を連呼するうち、ようよう思い出してきたようで、「○○やろ、わかるよ。アタシの最愛の人やもん」と、ポツリ。そして、その最愛の人のことを一瞬でも忘れていたのが悔しかったらしく、「ねえ、アタシって、呆けとう?」と真顔で聞いてきた。

これには父も私も面食らった。日々認知症の方々のお相手をしている私でも、さすがにどう答えていいかわからず戸惑っていると、母は答えがないのが答え、と悟ったようで、やっぱりそうか、とガッカリしてしまい、その後は話も弾まず、お互い何の話をすればいいのかさえわからず、そこそこに面会は終了した。終了させた。久しぶりに会えば、どうしようとね?大丈夫ね?と、それこそウザいぐらいあれこれ聞いてくる母はもうそこにはいなかった。認知症とは悲しいものだ。

翌日、施設のクルマで家に帰ってきた母は、言葉少ないのは変わらずとも、話しかければ普通に受け答えはできた。もうほとんどのことは忘れているようで、話は続かないが、わけの分からないことを言い出したりはしない。認知症でも初期の段階なのだろう。それはいいが、大変なのはやはり排泄である。自分でトイレに行こうとはするが、危ないので支えて連れていけば、たいてい粗相をしている。

そんな時のために大人用のオムツがあるので、それを使えばいいと思うのだが、なぜか使わず、生理用のシートを使っていた。それでは尿や便は受け止めきれず、しばしばパンツ(ショーツ?)やズボンまで汚してしまい、それを洗うのも大変な手間である。そんな大変なことを父が1人でやっていたことに頭が下がる。いや、ほんと、よくやってましたね。ご苦労様でした。

でも、安心してください、お父さん。それまで何の役にも立たなかった息子が、東京で曲りなりも介護の仕事につき、3~4年の経験も積んで、そういう面ではすっかり頼もしくなって(自分で言うな!)、帰って参りました。帰って来たからには、わずか1週間ですが、一生懸命、万全を期して母の介護をやりますので、お任せください。

と、思うじゃないですか。そう思って帰って来たのに、実際は、なーんもしませんでした。実家に滞在した約1週間、ずーっと、なーんもせず、ただ父がつくったメシを食べ、父が沸かした風呂に入り、父が敷いた布団で寝た。役に立ったのはクルマの運転ぐらいのものである。何度かスーパーへ買い出しに行ったのと、一度だけ父を病院へ送迎した。ただそれだけだった。

というのも、私が母をトイレに連れて行こうとすると、父は、よか、よか、と言って自分がとって代わり、私に介護させようとしないのである。それはもう、頑なに。理由はわからない。多分、自分がやらなきゃ、という使命感が強いのだろう。私も私で、無理やり代わるようなことはせず、好きにさせた。どうせ1週間しかいないし。それに、もし代わったとしても、勝手がわからない。私が実家を出た後、何度もリフォームしている実家は、もはや勝手知ったる我が家ではない。勝手がわからない家での介護は、私にはムリだ。訪問介護をやっている人は、よくやれるよねえ。

というわけで、せっかく帰って来たのに、せっかく介護の仕事をしているのに、自分の母の介護は何もせず、健気に母を介護する父を見ていると、複雑な気持ちになる。家に帰ってきてからは、とにかく何も食べない母に、食べろ、頼むけん食べてくれ、と、涙ぐみながら食べさせようとする父に、私の涙腺まで緩む。悲しいねえ。いや、悲しいぐらいまだいい。考えたくはないが、老老介護の末に起こる悲劇までがつい頭をよぎる。介護疲れが殺人にまで至る、というケース。しばしばニュースになっているが、まさかそれが我が親に起こる可能性が出てきたとは。そう考えると、施設へ入れる、という選択は間違っていない、と改めて思う。

日曜日には3人で、私が運転して、母の姉、つまり私にとって叔母の家へ行った。これで最後かもしれん、と思って。叔母は91歳なのに元気で呆けもせず、昔のままのおしゃべりだった。叔母より若い母がなぜ先に認知症になったのか、悔やまれるがこればっかりはどうしようもない。叔母は、私を見ても一瞬誰だかわからなかったようだが、すぐ思い出し、○○ちゃん、と親しげに呼んでくれ、今回の帰省で初めて、子供の頃に戻ったような気分を味わった。

翌月曜日、母はデイケアで日中は施設へ。その間、父とホームセンターへ行って、大人用の紙オムツと、蓋付きのゴミ箱を買った。汚物入れもなかったので。それは私が無理やり買わせたので、支払いは私がしようとすると、父は私のスマホ(PAYPAYで払おうとしていた)を叩き落とすような勢いで制し、自分で払った。それまでもスーパーで刺身やおかずを買うたび、私が払う、と言っても決して私に払わせようとしない父。いくら歳とっても息子は息子、なのはわかるけど、自分はもう年金暮らしなんだから、少しは息子に甘えろよ、と思うが、こうまで頑なならどうしようもない。

支払いだけではない。家に戻り、施設から帰って来た母に私がオムツを履かせようとすると、履かせにくいからダメだ、とか、妹が買って置いてあったパットが大きすぎる、とか、文句ばっかり言う父に、私もしまいには腹を立て、なら好きにせえ、と匙を投げた。ったく、その頑固さは何なんだ?昔からこんなに頑固だったっっけ?いや、本気で怒って喧嘩するほど、私も短気ではないよ。でも、そこで辛抱強く、納得するまで教えてやるほど人間ができてもいない。まだまだ修行が足りんなあ、オレ。

かくかくしかじかで、せっかく帰省しながら、肝心の母の介護はなんもせんままスゴスゴと東京へ戻った私。なんもすることがないので予定より1日早い飛行機のチケットをとり、その前日は高校時代の友人と後輩の3人で飲んだ。その友人はかなり前だが当ブログでも紹介した、「NPO法人箱崎自由学園エスペランサ」というフリースクールの経営者で、その学校は私が上京する前、福岡での学生時代に下宿していた古民家をリフォームして使っている。

そこで私が寝起きしていた部屋がまだそのまま残っている、というので、その日飲んだ後、泊まらせてもらった。いやあ、懐かしかったなあ。翌日、福岡空港でお土産を買っていると、例のぐるぐるとり皮巻き串を発見。試しに買って家で食べたが、これもイマイチだった。味はいいのだが、どうも固くて食べ辛い。レンジではなく、湯せんかオーブンだったらよかったのかもしれないが、後の祭り。いつになれば旨いぐるぐるとり皮巻き串が食べられるのだろう。と、食い物の話で〆ちゃいかんな。今回のテーマは“老老介護”なのでお忘れなく。それにしても、“老老介護”とは、現代社会の重大かつ深刻な問題であり、それが我が親に降りかかれば、こんなにも悲しく、切なく、やるせないものであることを皆さんにお伝えできればと思い、いつも以上に時間がかかり、またしても文章長過ぎたことを陳謝しつつ、〆とします。最後まで読んで頂き誠にありがとうございます。ではまた。