医療行為

先日、私が勤めている介護施設で、入居者の1人が亡くなった。この方は、私がこの施設で働き始めたときにはすでに入居していた最古参メンバーの1人で(私からみて、だけど)、その当時からもう認知症でまともな会話はできない状態ではあったものの、自分の足で歩いてトイレに行けた(おねしょや粗相はするが)し、食事も食介(職員が介助して食事を食べさせることね)せずとも自分で食べることができた。

できたどころか、食事は毎食ほぼ完食という食欲旺盛ぶりで、認知症だけど食事に関しては優等生であった。現在は、食介しないと自分では食べない認知症の婆ちゃんが2人もいて、手がかかる。いくら認知症でもメシぐらい自分で食えよ、といつも思うが(言わないけど)、その困った婆ちゃんに、この方の爪の垢を煎じて飲ませたいものである。

しかし、この方、それから1年ぐらいの間にみるみる足が弱り、車椅子に乗るようになった。その後、私が一旦その施設を辞め、約1年のブランクを経て戻ってきたら、寝たきりになっていた。寝たきりだから排泄もすべてベッドの上でオムツを交換するわけだが、なぜかこの方、両足が胸に抱え込むような恰好で曲がったまま、固まっていた。オムツ交換のため足を開こうとしても、ガチっと固まったままで、ピクリとも動かない。

その固さたるや、まるで石膏で固めたような、もしくは、何かの器具で固定したかのような、もはや人間の足とは思えないほどの異常な固さであった。私は夜勤専属であるが、夜勤者は就寝時、深夜、起床時と3回もオムツを代えなければならない。けど、こんなに足がガチガチに固まっていては、オムツ交換は至難の業。就寝時はまだ遅番の人が残っているので手伝ってもらい、2人がかりでオムツ交換していたが、深夜と起床時は私1人しかいない。

仕方ないので、私1人で、固まった足を力ずくでこじ開ける。ちょっとやそっとの力では開かないので、渾身の力を込めてこじ開ける。その度に、「いやー」と叫ばれるが、しょうがない。無理矢理、なんとかオムツを代え終わった頃には、汗だくである。いやあ、疲れますぜ、ったく。

そんな状態でも、食事は相変わらず、ほぼ完食していたから、大したもんだ。恐らく内蔵が丈夫なのだろう。とはいえ、寝たきりなので自分では食べられず、職員が食介する。食べるものはもう普通食ではなく、流動食というのかな?液状で噛まなくても飲み込めるものになっていたが、それを毎食、ほとんどすべて平らげる。スプーンで掬って口に持っていくと、アーン、と口を開けて、パクっとくわえ込み、口をモグモグさせ、ゴクン、と音を立てて飲み込む。足は動かなくても口だけはよく動く。もはや人間というより動物だな。

それでも、次第に、スプーンを近づけてもなかなか口を開いてくれないときが増えてきた。すると今度は、シリンジ(注射器の針のないやつね)を使って、流動食や水分を口に流し込むようになった。こうなると、もはや食事というより、ただの栄養補給作業である。注射器でチューっと、ね。それでもほぼ完食してくれるし、しかも食介にかかる時間が短くて済むので、私としては助かった。

そんな状態が丸1年と10カ月ほど続いたある日、私がコロナに罹り、1週間ほど休んで(その顛末は以前このブログでも書いた通りで、まだ進行中)、復帰すると、その方は入院していた。

そのときは職員だけでなく利用者にもコロナが出て、いわゆるクラッシャーが発生していたので、避難のための入院だったようだ。が、退院して施設に戻ってきたらその方、今度は口に酸素吸入器のマスクをつけ、お腹には点滴の針が刺さり、オムツに下には排尿のためのバルーンも取り付けられていた。これはもう、チューブ人間というか、もはや植物人間というべきか、なんとも痛ましい状態であった。ただ、口だけがパクパクと動いていた。

痛ましいが、介護する側からすれば、ラクにはなった。栄養は点滴で摂るので食介の手間が省けるし、尿もバルーンから自動的に排出されるので、ベッドの脇に吊るした尿が溜まる袋から1日2回、尿を捨てるだけでよくなった。したがって、オムツ交換も便失したときだけで済み、回数が減った。かわいそうだけど、ラッキー、と、内心ではそう思っていた。もちろん口に出しては言わないが。

ただし、点滴は朝までもたない。ベッドより高くぶら下げた袋?容器?(正式名称知らないけど、わかりますよね、厚めのビニール袋のような透明の容器)は、夕方セットしても夜中には空になる(何時間もつのかはしらないが)。私も夜勤中、点滴が空なのに気が付き、新しい袋もそこに置いてあったので、何気なく、交換した。やり方はあまりに簡単で、教えられなくてもできたから。

しかーし。じつはこれ、医療行為に当たり、資格保持者(看護師とかね)でないとやっていけない、ことである。たとえ私たち介護士でも、誰でもできる簡単なことでも、医療行為はやってはいけない。そのことは私も知っていた。知ってはいたけど、まあいいや、と思ってやった。

というのは、そのずいぶん前の話だが、この施設の専属の看護師(今はもう辞めたが)から、痰を吸入する機械(これも名称はわからない)の使い方を教えられたことがあった。当時いた利用者でよく痰が絡む人がいたので、ひどいときはその機械を使って痰をとれ、というわけだが、そのとき私が、「これは医療行為じゃないの?」と聞いたら、その看護師さんは、「そうだけど、そんなこと言ってられないから」と言った。

つまり、厳密にいえばNGだけど、そのためにわざわざ看護師を呼べないから、介護士ができることはやれ、というわけだ。これは施設によって違い、容認する施設もあれば、絶対ダメ、と厳しい施設もある、らしい。もちろん当施設は容認している、と思うよねえ。だって、医療行為とわかっていながら、私に痰の吸入器の使い方を教えたぐらいだから。

点滴の画像

それに何より、点滴が空になっていたら、やっぱり見過ごせないでっしょう、人として。なにしろその方は、もう食事は摂れず、点滴で命をつないでいる状態なんだから、点滴が切れたら死ぬかもしれないじゃん?なのに点滴をセットした看護師は、当然ながら夜は帰ってしまい、来るのは朝になってから。その間点滴は空のまま。だったら、たとえ医療行為であっても、資格がなくても、そこは目をつぶって、点滴の交換ぐらいは、やるべきだ、と、私は思う。簡単なことだし。

ところが、だ。その日は何事もなく退勤したが、次に出勤するやいなや、施設長(前任に代わって新たに就任したばかりだった)から、どうして点滴を代えた?と、責められた。どうして、って言われてもねえ。返事に窮していると、なんと、事故報告書を書け、と言う。

事故報告書とは、アクシデント報告書ともいうが、入居者が転倒した、とか、誤薬した、とか、何かしらに事故=アクシデントが起こったときに書くものである。私も何枚か書いたことがあるのは、以前もこのブログに書いたが、それにしても、点滴を交換したのが、事故、ですか?

いや、まあ、わかるよ。施設としては、厳密にはやってはいけないことだから、それぐらいいいじゃん、は通らないことは。世の中とはそういうもんだし、ましてや昨今は、医療行為に対する世間の目は厳しいからね。それでも、私は言いたい。だったら、前もって、点滴が空になっても交換はするな、医療行為だから、と、連絡ノートに書いておくなり、申し送り(は説明しなくてもわかりますね?)のときに念を押すなり、するべきだろう。

だって、私にように、医療行為とわかっていても、それぐらいはいいだろう、という認識の甘いヤツは他にもいるだろうし、そもそも点滴交換が医療行為に当たることさえ知らない職員も、きっといる、と思うよ、この施設にも。だから責任は施設にもある。私だけが悪いわけじゃない。と言いたい。

などと文句タラタラ、憤懣やるかたなし、ではあったものの、所詮しがないバイトの身、そのことを上の人に申し立てて事を荒立てるのも面倒臭く、結局その場では何も言い返さず、事故報告書も適当に書いて、やり過ごした。若い頃だったら言わずにおれなかっただろうが、私も大人になったものだ。多分悪い意味で。

その数日後のことである。出勤すると申し送りで、その寝たきりの方がずっと高熱が続いているので要注意、と言われた。いつ亡くなってもおかしくない状態だ、とも言うではないか。そりゃ大変だ、と緊張する一方で、まあ大丈夫だろう、という妙な自信もあった。

なにしろその方、かなり長きにわたり続いていた寝たきり状態の中、それまでにも何度か、言い方は悪いが、もうそろそろかな?と、思われる時期が何度もあったが、その度に、奇跡的というか、しぶとく、といっては失礼だが、危機を脱してきていたから。

私なんか、オムツ代えなど介助する度、こんなふうになってもなお生きている、いや、生かされれていることが、可哀想というか、不憫に思えて仕方がなかった。こんな状態でも、やれ酸素吸入器だ、やれ点滴だ、なんだかんだで無理やり生かされていることに対して、考えることは多々あるが、多々あり過ぎて整理がつかないので、ここではスルーして先を急ぐ。

とにかく、寝たきりだけど生命力は強そうだ、と、私はその方をそうみていたので、その日もまあ、大丈夫だろう、と思っていたら案の定、21時に巡視・安否確認のため訪室し、体温を測ると、熱は下がっていた。口もいつものごとくパクパクと動いていた。少し呼吸が荒いのが気にはなったが。

このとき、もし熱が下がらなかったら、座薬を入れるように、と指示されていた。座薬を入れるのは医療行為ではない、という。それも変な話だよねえ。点滴の容器を代えるよりも座薬を入れるほうが、よっぽど難しそうじゃん。それに私、座薬入れたことなんかないし。

しかし熱が下がったので座薬も必要なくなり、そのことでもホッ、とした。少なくとも今晩はもつだろう、と、安心もした。私の夜勤中に死なれると、やっぱりイヤだからねえ。それでも念のため、1時間半ぐらいしてまた訪室し、様子を伺った。もしかしたら虫が知らせたのかもしれない。

そうです。つい先ほどまでパクパク動いていた口が、動かなくなっているじゃないの。ギョッ、としましたねえ。慌てて酸素吸入器のマスクを外し、自分の手をその方の口にかざして、呼吸を確かめる。ウンともスンともいわない。脈もはっきとはわからないが止まっているようだ。

ああ、これは決まりだな、と思った。死相とか死斑とかは見たことないが、これが死人の顔なんだな、というのは、なぜかわかった。ただ、自分でも意外だったが、だからといってとくにパニくることもなく、冷静に、もしものことがあったら電話するように言われていた施設長に電話して、「21時までは元気でしたし、熱も下がっていましたが、22時半に確認すると、呼吸が止まっていました」と、事実をそのまま報告した。

すると、1時間後に提携しているクリニックに電話するよう指示された。1時間後、というのは多分23時ぐらいかな?それより前ならすぐ駆け付けなければならないが、それ以降なら翌朝でいい、といった取り決めでもあるのだろう。

そして1時間後、言われた通りクリニックに電話すると、やはり、もうこの時間だから翌朝にしていただければ助かります、と言う。別に異存はないので了承し、それまでに何かやることはありますか?と聞くと、部屋の温度を下げることと、口が開いていたら乾燥するので閉じておくように、とのこと。口は開いていたが、固まっていて閉じようにも閉じれない。仕方ないので口はそのままで、部屋のエアコンは冷房に切り替えて、通常の夜勤の業務に戻った。

夜の部屋の画像

つまり、この日は朝まで死体と一緒に過ごしたわけだが、同じ部屋ではないのでべつに気味が悪いとも思わず、普通に過ごせたのは、もしかしたら感覚が麻痺しているのかもしれない。とくに悲しい、とも思わなかった。なにしろ最初から認知症で意思の疎通ができない人だったし、寝たきりになってからはもはや植物人間と変わらない状態だったし。

それでも、身勝手な言い方かもしれないが、私に落ち度はなかったか?とは、ずいぶん考えた。もしかしたら、私ではなく、別の職員の夜勤中だったら、死なずに済んだのではないか? そんなことを考えれば考えるほど、腹が立ってくる。というのは、前述の、点滴、である。

はっきり覚えているが、私が出勤してその方の部屋へ行ったとき、すでに点滴は空、だった。確認したので間違いない。空だったのに気が付いていたのに、新しいのに代えたらまた医療行為だと怒られるに決まっているので代えるに代えられず、空のまま放置していた。

もしかしたら、それが死因ではないか? あのとき医療行為云々は目を瞑って、空になった点滴を新しいものに代えて、点滴を続けていたら、あの方は死ななかったのではないか? その可能性は十分あった、と今でも思っている。だけど、それを今更蒸し返しても詮無いから、そのときも、その後になっても、やっぱり何も言わなかった。医療行為問題に異議を唱える気力もない。所詮バイトだし、私ももう大人だからね。悪い意味で。

翌朝、クリニックから医者が来て(意外に若い女性だった)、瞳孔にライトを当てるなどドラマで見るようなことをして、「〇時〇〇分(正確な時刻は忘れた)、死亡を確認しました」と言った。それから、同行してきた看護師らしきおばさんが、寝間着を整え、オムツを代えるなどしてくれた。おお、これは「おくりびと」という映画で本木雅弘が演じた納棺師(だったっけ?)がやっていたことの簡易版だな、と思って見ていたが、ただ見ているのも悪いので、私も少し手伝った。気分は納棺師である。棺桶はないけど。

そのとき、である。あれほどガッチリ固まっていた足が、オムツ交換のため開くと、それまでの固さがウソのように、いとも簡単に、ホロリと開いた。もう死んでるんだから当然といえば当然かもしれないが、そのとき、やっと、「死」というものを実感した。

考えてみれば、死体を触ったのは、多分、そのときが初めて、だった。葬式などで見たことはあっても、触りはしないからね。そんな初めて直に触った死体の感触を通して、「死」の儚さが伝わってきたのだろう。涙までは出なかったが、哀悼の気持ちが胸の奥底でじわりと広がってきたような、そんな感覚があった。

そんな作業を終えて居室を出ると、葬式会社の人が2人、担架を持って待っていた。手回しがいいことですな。その葬式会社の人は、私たちと入れ替わりに居室へ入ると、ドアを閉めた。なんか人に見られてはいけないことでもあるのかな?

その後、施設長やフロアリーダーから状況を根掘り葉掘り聞かれるだろうな、と思っていたが、とく何も聞かれなかった。死んだ方の身よりも、コロナだとかで来なかった。人ひとり死んだのだから、朝になったら大騒ぎは覚悟していたが、拍子抜けするほど何事もなく、時間が来て退勤。その日の夜勤明けの一杯は、亡くなった方へ捧げる献杯となったのは言うまでもない。

というわけで今回はここまで。アイキャッチの写真は、その次に出勤したらすでにもぬけの殻になっていたその方の居室である。さすが、こうした高齢者施設は人が死ぬことに慣れていて、後片づけも早い、早い。そしてまた、新しい人が入居して、何食わぬ顔で施設の運営は続いてゆくのだろう。もっとも、この原稿を書いた時点ではまだ、新しい入居者は入っていない。

あと、タイトルをあえて「医療行為」としたのに深い意味はない。「医療行為」について問題提起する気もない。が、もし、この稿を読んで、「医療行為」に関する意見などあればぜひお寄せ頂きたい。介護に従事している人なら、似たようなエピソードをお持ちの方もいらっしゃると思いますので、お聞かせ願えたら幸いです。ではまた。