日本橋七福神めぐり

今年の元旦は、夜勤明けに(私にしては)珍しく初詣に行って、元旦からなぜか焼肉を食べ、その翌々日、つまり1月3日の夜勤明けに今度は「七福神巡り」に出かけ、その途中でまたしても焼肉を食べた、という話の続きです。元旦から焼肉の2連チャン、ということで、前回でも予告した通り、今回のアイキャッチ画像は焼肉の写真にしました。美味しそうに見えるかな?

その「七福神巡り」だけど、そもそも年中行事に関心がない私、当初はまったく興味も関心もなかった。なにしろ初詣でさえ、誘われたから行ったけど、誘われなかったら多分、いや、絶対に行ってない、と、自信を持って言えるぐらいだからねえ。

それでも、せっかくアラドラのメンバーの1人が企画してくれたわけだし、(初詣もそうだったけど)ちょうど夜勤明けだったので、誘われるがままに参加した。どうせ夜勤明けはどこかで飲んでいるんだから、1人で飲むよりはみんなと一緒の方がいいか、ぐらいの気持ちで。

つまり、まあ、言ってしまえば、飲みに行くついでの「七福神巡り」であった。私にとっては。だから今回は焼肉の話がメインで、「七福神巡り」について書くつもりはなかった。だけど、まったく書かない、というのも、せっかく企画してくれた人に悪いなあ、という気もしたので、ちょっとだけ書きます。

「七福神巡り」は、室町時代の京都ではじまった、というのが定説らしい。当時は三代将軍足利義満が行った日明貿易(勘合貿易とも称される)により、中国から大量の文化が流れ込んできた時代。その中の1つに「竹林七賢図」と呼ばれた水墨画があり、日本の人々の関心を集めたという。これは竹林に七人の賢人が集まり会議のようなことをしている図柄で、神仏ではなく仙人ではあるものの、これにちなんで「七人の神を信仰すれば福を運んでくれる」という考え方が徐々に広まっていった、とされている。

また、徳川家康が江戸幕府を開いた後、人々の心を安定させるために、七福神を順番に巡ると福が来る、という話を広め、「七福神巡り」を推奨した、とも言われている。さらに、1804年(文化元年)、佐原鞠鵜という人が開いた「向島百花園」に絵師や狂歌師などの文化人が集まり、江戸末期のサロン的な役割を果たしていたが、その面々が江戸ならではのシャレとして向島百花園を筆頭に三囲神社、長命寺、白髭神社などに七福神を配し、これらを順番に巡れば福が来る、という設定をつくった、という説もあるそうな。

その後、1899年(明治32年)1月の『時事新報』によると、その前年に「隅田川七福会」が結成され、「途絶えていた七福神巡りが、隅田川七福会によって再興された」という記録がある。現代の人々の間に「七福神巡り」の習慣が根付いている(のかどうかは知らないけど)のは、この「隅田川七福会」によるところが大きい、と考えられる。そのルーツが「向島百花園」にあることはほぼ間違いなく、それまでは「途絶えていた」という記録もあることから、現代の「七福神巡り」の発祥の地は、向島もしくは隅田川沿い、と言っていいだろう。

その「七福神巡り」発祥の地からすぐ近く、日本橋から人形町界隈が今回の「七福神巡り」の舞台であった。通称『日本橋七福神めぐり』である(公式HPではなぜか巡りを平仮名で記載している)。言うまでもないが、全国各地にそれぞれ「七福神巡り」はあって、それぞれにルールが違う。たとえば、巡る順番がきちんと定められている「七福神巡り」もあれば、どこから巡っても構わない「七福神巡り」もあり、御朱印の貰い方や、中には参拝の仕方まで異なるところもあるそうなので要注意。

七福神のイラスト画像

ただ、唯一(と言っていいかはわからないが)、共通しているのが、「七福神」すなわち恵比寿神、大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋尊、福禄寿、寿老人の七柱(神様を数えるときは柱という)の神様が祀られている寺社をすべて回ってお参りすること。まあ、だから七福神巡りというわけで、当然といえば当然か。

ちなみに、七福神の中で、純粋な日本の神様は、恵比寿神だけ、であることは、ご存じでした? 大黒天、毘沙門天、弁財天はインド(ヒンドゥー教)の神様で、布袋尊、福禄寿、寿老人は中国の伝説的高士、なんだそうですよ。

なぜ七人か?については、仏教経典の「仁王経」にある「七難即滅、七福即生」(国土に七難があるとき、国王がこのお経を読めば、七つの難はただちに滅んで七つの福が生じ、人々は安楽となる。といった意)にに基づく、とされているが、まあ、難しいことはさておき、要するに、「七」という数字が日本人は好きだからでしょうね。七草とか、七夕とか、場合によっては七を聖数とすることもありますから。ちなみに、中国では七よりも「八」という数字の方が縁起が良いとされ、七福神ならぬ「八福神」が崇め奉られているそうです。

かように、インドや中国など国も出自もバラバラな神様を七人、もとい、七柱をセットにして「七福神」と称した原形は、すでに室町時代からあった、ということで、「七福神」の発祥は室町時代、という説もある(『日本橋七福神めぐり』の公式サイトにも、「七福神の信仰は、室町時代よりはじまったといわれ、500年にわたって日本人に受け継がれ、年々盛んになっています」とある)が、その当時はメンバーが固定されておらず、違う神様を入れるケースもあった、というから、やはり現在の「七福神」の発祥は、先述の向島もしくは隅田川沿い、でいいでしょう。

ちなみに(今回はこの“ちなみに“という言葉が多いな)、『日本橋七福神めぐり』の公式サイトにはこうも書かれている。「日本橋七福神めぐりは、他所とは異なり、すべて神社で構成されています」。ということは、他所の七福神巡りは、神社だけでなく、お寺を含むことも多いんだな。知らなかったけど、そういうことをやっていると、ますます神社とお寺の区別がつかない人が増えて困るよなあ、とは、余計な心配か。

また、『日本橋七福神めぐり』は、「巡拝距離も近く、日本で一番巡拝が短時間に参拝できるのが特長です」。とも書かれている。おお、これは、我々のような、面倒臭いことはサッサと済ませたい輩にはうってつけではないか。あ、「七福神巡り」を面倒臭い、なんて言ったらバチが当たるかな?

というわけで、ちょっとだけ書くつもりだったのに、調べてみれば色々わかって、結構長々と書いてしまった『日本橋七福神めぐり』。当日の待ち合わせは、場所も時間も元旦の初詣のときとほぼ同じだったので、元旦同様、日高屋で時間調整して(当然、生ビールも飲んで)、集合。そこ(築地)から電車に乗って人形町で降り、まずは「小網神社」へ向かった。ちなみに、『日本橋七福神めぐり』は「出発点は定めておりませんので、御自由にお巡りください」とのこと。

「小網神社」は、文正元年(1466年)、稲荷神を主祭神として建立され、約500年にわたり悪疫鎮座の神として鎮座。社名は太田道灌の命名とされる。同じ境内地にあった万福寿寺に健康長寿の福禄寿と財運向上・学芸成就の弁財天を奉っていたことから『日本橋七福神めぐり』の1つに数えられている、というが、ここの行列がすごかった。隣に建ち並ぶビルの1ブロックをほぼ1周取り巻くほど長い行列で、待ち時間はなんと3時間!

小網神社の外観写真

じつはこの「小網神社」については、神様なんぞとんと関心がない私でさえ、その噂は耳にしていた。具体的にいうと、飲食店を経営している知り合いに、「ここに参ったおかげで店が続いている。絶対にご利益があるから、君も行った方がいい」と言われ、無理やり連れて行かれたことがある。参ったからといって、その後何も変わらないのは言うまでもない。もっとも、神様の方でも、こんな信仰心のカケラもないヤツ(私のことです)にご利益を授ける気などサラサラないだろうが。

それはともかく、社殿が戦災を逃れたり、同神社の御守を受け戦地に赴いた兵士全員が無事に帰還した(本当かよ?)ことなどから、“強運厄除けの神”として知られる「小網神社」の人気は凄まじく、その長い長~い行列にあきれる我々一行であった。ほんと、東京の人って、並ぶのが好きだよなあ。

当然の如く、1秒も迷うことなく、並ぶのは諦め、さっさとその場を離れた私とその一行。今回の七福神巡りツアーを企画した人だけがただ1人、残念そうな顔をしていたが、悪いけど、3時間も並ぶなんて、冗談じゃないよ、とまでは言わないものの、その気持ちはその人を除く全員が同じだったとみえ、さほど逡巡することなく、全員が足を揃えて、次へと向かった。

次に向かったのは「椙森神社」。「椙」と書いて「すぎ」と読む。こんな字は初めてだ。パソコンで書けるかなあ?と思ったら、案外簡単に変換できた。知らなかったのは私だけ? この「椙森神社」は、遠く一千年の創建にして、うんたらかんたらー―えっと、各神社の詳細は割愛します。気になる人は、自分で調べてね。ネットで検索すればすぐ出てくるから。誰でも調べたらすぐわかる情報をここに載せるのは本意ではない。というのは言い訳で、ほんとはただ単に面倒臭いから、だけだけど。

続いて、「笠間稲荷神社」→「末広神社」→「松島神社」→「水天宮」と巡る。どこもガラガラ、並んでいても数人程度で、ほとんど待たずに参拝できた。一体、「小網神社」の行列は何だったんだ?

私はその「小網神社」の長い行列を見て、銀座の宝くじ売り場を思い出しましたね。知ってる人も多いと思うけど、西銀座にあるチャンスセンターとか何とかふざけた名前の宝くじ売り場は、窓口がたくさんあるのに、行列ができるのはただ1つ(何番かは忘れた)の窓口のみ。なんでも、その窓口から1等が多数出たらしく、その窓口で宝くじを買うために人々が並ぶ。他の窓口で買えば並ばなくて済むのに、あえてその窓口の行列のそのまた後ろに並ぶので、その窓口だけどんどん行列が長くなる。

西銀座の街並みの写真

しかし、冷静に考えてほしい。1等が出る確率は、どこの窓口でも同じ、のはずである。その窓口から1等が出やすいのは、それだけ枚数を多く売っているから、当然のことであり、1等が出た本数は多くても、確率としては変わらない。確率が同じならば、待つ時間は無駄、だろう。それがどうしてわからないかなあ。

いや、まあ、わかっちゃいるけど、そこは理屈ではない、ということかな。宝くじという“夢”を買うからには、買う場所にも“夢”を見たい、すなわち、1等が出やすい窓口で買いたい、という気持ちは、わからないでもない、と言いたいが、私にはやっぱり理解はできない。宝くじはもう何年も買ってないが、買うとしても絶対に並ばない。

「小網神社」に並んでいる人も、宝くじを買うために並ぶ人と同様、“夢”というか、この場合はご利益だな、それが行列に並べば並ぶほど、授かりやすい、と思っているのだろうか? 一度聞いてみたいものである。

いやいや、宝くじと神様を一緒にしてはいかんよ、という意見もあるだろうが、それを考えると、むしろご利益は、行列が長いほど、少なくなるのではないか。だって、神様にしてみたら、行列に並ぶ大勢の人々の願いを聞くのは大変そうじゃん?それよりは、少ない人数の方が願いを聞きやすいでしょうに。ご利益を授けるのもラクでしょう、と思うのだが、皆さんはどう思いますか?

あっと、言い忘れたけど、七福神巡りの途中、「末広神社」の後か、「松島神社」の後か覚えてないが、休憩と称して焼肉屋に入った。元旦に続いて焼肉2連チャン。これがまた旨かった。ここもメンバーの1人が知っていた店のようで、皆さんいい店をご存じですなあ。

あんまり旨かったので、今回のアイキャッチ画像は焼肉の写真にした、というのはすでに述べた(しつこくてすいません)が、しつこいようだけど、タイトルは「七福神巡り」なのに、写真は焼肉、なのは笑って許してね。

じつはこの日、そんなに時間が長くなるとは思わなかったので、「七福神巡り」が終わった後、娘と映画に行く約束をしていた。娘はこの日15時までアルバイトが入っていたので、バイト終了後に待ち合わせ、をするつもりだったが、ちょっと休憩のつもりで入った焼肉屋で調子に乗ってぐいぐい飲んで食べて、気がついたらすでに15時。そこで急遽予定を変更し、娘をその焼肉屋に呼び寄せた。

いや、まあ、平均年齢の高いオジサンオバサンの一行に、二十歳の娘がが加わっても、話が合うはずもないので、ちょっと可哀想かな、という気もしたが、まあ、いっか、お正月だし。と、わけのわからないことをほざきつつ、酔いも手伝って、娘を呼びつけるしょうもないオヤジであった。

それでも、いざ合流すると、娘は思いのほか楽しそうにしていたのは、話が合ったからではなく、お年玉を貰えたから、に違いないが、それはそれで、よかった、ということにしておこう。

そうして散々飲み食いした挙句、やっと重い腰を上げて、「七福神巡り」を続行。結構酔っぱらって覚えていないが、まだ5社しか回ってないな。「小網神社」はもうあきらめるとして(その時点でまだ行列が続いていた)、残りの1社はどこだっけ? 覚えてないので後で調べたら、どうやら最後の1社は、「茶ノ木神社」だったらしい、多分。

これで「小網神社」を除く六福神巡りを完遂。七福神には足りずとも、我々はこれで充分、満足、満足。ということで、その後は打ち上げと称し、これは企画した人が事前に予約しておいてくれた、人形町のとんかつ屋に入ってまた飲んだ。とんかつをつまみながら。それにしても、今年の正月はよく飲んで、食べたなあ。

ちなみに、今回の『日本橋七福神めぐり』ツアーを企画した人は、この日我々があっさり「小網神社」をパスしたのがどうしても我慢ならなかったらしく、後日、我々を代表して、1人で「小網神社」の行列に並び、参拝してきた、という。いやはや、それはそれは、ご苦労様でした。チャンチャン。