上田城と松本城

松本城の写真

今回はいつもとはちょっと趣向を変えてお送り致します。趣向というよりは、体裁、もしくは、様式、というべきかな? これまで当ブログは、基本的に原稿は文章のみ、写真はアイキャッチ画像1点だけ、というスタイルでやってきましたが、今回に限り、写真を多めに使って文章は短め、つまり写真が主体のブログとなります。今回に限り。

というのは、先週末、長野県へ1泊2日の小旅行に行ってきたので、その様子をブログでお伝えしよう、というわけですが、そういうのはやはり文章よりも写真の方が伝わりやすいからね。百聞は一見に如かず、という言葉もある通り。

いやいや、そこをあえて文章だけで伝えるのがプロじゃないのか。というご意見もおありでしょう。私もそう思います。けど、たまには日寄ってもいいじゃないですか。人間だもの。

と、相田みつをのパクりで誤魔化している場合ではなかった。ウダウダ書いているとまた文章長くなって結局、いつもと同じじゃん、となりそうなのでとっとと本題に入ります。

長野県へ行ったのは、このブログを掲載している「アラドラ」が所有する施設(といってもただの民家だけど)が長野県の東御市というところにあって、その視察が今回の旅の目的であった。

今はほぼ使ってないその施設を、なんとか活用できないか、という議論が「アラドラ」のミーティング(と称するただの飲み会)で持ち上がったのだが、活用するもなにも、とにかく1度現地へ行って見てみないことには何もはじまらない。ということで「アラドラ」のメンバーの有志4人で出かけた、という次第。

しかし、その話はまたいずれ、何か動きがあったとき、もしくは、何かしらの方向性が定まったときにでも述べるとして、今回は別の話。視察のついでに観光した、「上田城」と「松本城」の話をしたい。

まず「上田城」。東御市での視察を終えるとその足でお隣の上田市へ行った。市の中心部(だと思うが)のわかりやすい場所にあった駐車場にクルマを停めて、見上げた「上田城」がこちら。

上田城 南櫓

上田城 南櫓

はい、「城」というにはすいぶん小さいし、地味だし、何も知らずにいくと拍子抜けしそうだけど、それはしょうがない。なぜなら、「上田城」には天守閣がないから。この写真は「南櫓」で、あと「西櫓」と「北櫓」があり、その3つの櫓と「東虎口櫓門」、そして「真田神社」、建物はほぼそれしかないのが「上田城」である。

上田城 東虎口櫓門

上田城 東虎口櫓門

(東虎口櫓門。これは大きくて風格もあって素晴らしい)

真田石

真田石

(東虎口櫓門の石垣にある「真田石」。真田信之が松代移封の際に父の形見として持ち運ぼうとしたが、不動であったとの伝説をもつ直径3mの巨石)

天守閣がない、と聞くと、な~んだ、そんならわざわざ観る価値はない、と思われるかもしれない。が、豈図らんや、決してそんなことはない。わざわざ東京からでも足を運ぶ価値はある、と思うぐらい気に入った。建物は少なくても石垣などで十分往時を偲ぶことができるから。

あんまり気に入ったので、翌日にまた行って、前日は時間が遅くて登れなかった「南櫓」に入場料(観覧料?)を払って登ったほどである。すると中にはボランティアだと思うが解説員?のオジさん(観光地にはよくいますね)がいて、模型を見ながら色々と興味深い話をしてくれた。

たとえば、明治になって廃城となった「上田城」の櫓2基は、民間に払い下げられ、移築されて、なんと遊郭として使われていたそうだ。お城が遊郭って、色んな意味ですごいよねえ。昭和になって上田城址保存会によって買い戻され、修復されたからよかったものの、地元の人にとってはあんまり表には出したくない歴史だろう。が、こちらとしては、むしろそういう話の方が面白いし、記憶に残る。話を聞けてよかった。

ちなみに天守閣については、最初からなかったわけではないようで、かつて天守閣があったことを示す遺跡なども発掘されているとそうだ。が、当時の資料が何も残ってないので再建はできない、という。大変残念だし、地元に人は悔しいだろうなあ。だって、城といえば誰もがイメージするのは天守閣だからねえ。

それでも、天守閣はなくても、「上田城」はお勧めしたい。なんといっても、真田氏の歴史が息づいてる。徳川の大軍を撃退した勇名が轟いている。実際、2度もの実戦体験(天正13年第一次上田合戦、慶長5年第二次上田合戦)を持ち、輝かしい成果をあげた城は、全国でも他に例はない。と、パンフレットに書いてあった。そんな真田氏の武勲にあやかりたい人はぜひ「真田神社」へ参拝を。私も「願い玉」や「真田紐」のストラップを買いました。

真田神社にある大兜

真田神社にある大兜

真田神社にある大兜。フォトスポットらしい

真田神社の奥にあった真田幸村像

真田神社の奥にあった真田幸村像

それにしても、真田氏といえば真田幸村ぐらいしか知らないなあ。雲隠才蔵や猿飛佐助といった真田十勇士も聞いたことはあるが、詳しいことはよくわからない。

と、思っていたら、上田城の近くで「池波正太郎記念館」を発見。ここもよかったなあ。思えば、池波正太郎は好きだが、読んだことがあるのはエッセー(主に食べ物について書かれた)のようなものを少しばかりで、じっくり作品を読んだことがなかった。この機会にぜひ、読んでみたい。とくに「真田太平記」は読みたくて読みたくてたまらなくなった。こういう思わぬ出会いも旅の醍醐味である。

おっと、今回は写真を主にするはずだった。このままダラダラ書き垂れ流していたら、いつもと同じになってしまう。「池波正太郎記念館」についてはもっと色々と書きたいことはあるが、ここがぐっと我慢して切り上げて、次へと進む。興味のある方はぜひご自身でご体験ください。

「上田城」に天守閣がなかったから、天守閣を観たくなった。というわけではないが、「上田城」の次に向かったのは。「松本城」である。ここはかねてよりずっと、行ってみたい、一度は観たい、と思っていた。なにしろお城好きですから。

そんな長年の念願叶ってついにお目見えできた「松本城」は、さすがの国宝であり、現存する日本最古の五重天守にふさわしい風格の景観であった。写真などで何度も見てはいても、やっぱり実物を観れば、感動しますな。世界中を見回しても、建築物としての美しさは、世界でも唯一無比、ではなかろうか。

外から観た松本城

外から観た松本城

そう思うのは日本人ばかりではないようで、この日の観光客は恐らく半分は外国人の方々であった。それだけインバウンドが復活している、ということだろう。もちろん中へ入る。観覧時間は50分、待ち時間は10分、とあった。

入場して中から観た松本城

入場して中から観た松本城

「松本城」は、戦国時代の永生年代初めに信濃の守護・小笠原氏が造った「深志城」が始まり。その後、武田信玄に占領されるも、天正十年、本能寺の変による動乱に乗じて小笠原貞慶が取り返し、名を「松本城」と改めた。

天正十八年、豊臣秀吉が天下統一し、関東に移封された徳川家康に従って小笠原氏が下総へ移ると、秀吉は石川数正を「松本城」に封じ、数正の子・康長の代に店主三棟(天守・乾小天守・渡櫓)をはじめ、御殿・太鼓門・黒門などが造られ、近世城郭としての「松本城」の基礎が固まった。

という歴史や、石落と狭間などといった建築の話はここではもういいですね。あまりに有名な観光スポットだし、行ったことがある人も多いだろうし。まあ、行ってよかった、と、ありきたりな感想で留めておきます。中に入れば階段が急で、階段というより梯子を登っているようで足がガクガクになった、とか、中もずーっと行列でゆっくり観る間もなかった、といった体験談は伏せときます(書いちゃったけど)。そんなネガティブな話は些細なことで、やっぱり感動の方が大きかったから。

「黒門」に飾ってあった鎧兜

「黒門」に飾ってあった鎧兜

最後に、この1泊2日で、せっかく長野に来たのに蕎麦を食べていない、ということに気がつき、急遽スマホで探して寄った城の近くの蕎麦屋で食った蕎麦が美味しかった、という話で今回は締めます。土産物屋の2階にある、結構有名らしい蕎麦屋で、田舎蕎麦は太めに切った、といいながら結構細めだったけど、味はまあ想像通りの風味でツルツルと食えた。あんまり褒めてないかな? まあいいか。長野へはまた近々行くことになるだろうし、もしかしたら足蹴く通うようになるかもしれないので、長野の話は以降も多分続きます。乞うご期待。

松本市内の蕎麦屋 盛りそばと甘酒の写真

(松本市内で食べた盛蕎麦。甘酒もつけて)