トルコ

2月6日、トルコ・シリアで起こった大地震。発生から1週間が経過した時点で(=この原稿を書いている時点で)、死者は3万5千人超え。最終的には4万人超えは確実、どころか、もしかしたら5万人まで到達する恐れもある、といわれるほどの大災害となっている。

ちなみに、東日本大震災の死者は1万5899人、行方不明者や関連死を含めても2万2207人、だそうです。あの東日本大震災よりも大きな被害、というだけでも想像を絶するのに、その倍以上にも達する可能性があるとは、もはや語るすべもない。亡くなった方々には縁もゆかりもない遠い国からですが、心よりご冥福をお祈りするとともに、現在避難生活を送られている被災者の方々には、一刻でも早い復興を祈願しております。

と、いつになく神妙に始まった今回の当ブログ。まあ、大勢人が亡くなっているわけだからね。ちょっと間が空いて久しぶりの更新だけど、今回に限っては、ずっとこんな調子でいこう、と、当初は思った。しかし、そのつもりでいざ書きはじめてみると、どうも書きづらい。どうやら真面目な文章を書くのが不得手になっているらしい。そんなふざけた文章ばかり書いていたつもりはないんだけどねえ。

で、何度も書いては消して、を繰り返した挙句(さりげなく更新が遅くなった言い訳をしております)、結局は以下、いつもの調子に戻します。途中、ふざけた表現があったとしても、それは震災とは別の話であり、亡くなった方々を悼む気持ちに変わりないので、そこんとこよろしく。

というわけで、トルコについて、だけど、じつは私、もうかれこれ7~8年ほど前になるけど、行ったことがありまして、まったく“縁もゆかりもない”というわけではない。いや、たった一回行ったことがあるだけで縁とかゆかりとか言われても……という声は無視します。私にとっては、1回でも行ったことがあれば十分なご縁だ。文句ある?

とはいえ、私が行ったことあるのは、イスタンブールとカッパドキアの2都市のみ。今回の被災地とは離れている。離れていても、同じ国ではあるのだから、地震のニュースを聞いたとき、これにかこつけて、私ごとであるがトルコの思い出話でもしようかなあ、と考えた。過去ブログで、ワールドカップで日本と対戦したのにかこつけて、行ったことがあるコスタリカの話をしたように(結局あんまり詳しい話はしなかったけど)。

トルコ・イスタンブールの写真

ただ、ワールドカップにかこつけるのはいいけど、地震にかこつけて私ごときの話をするのは、若干気が引けた。もう一度言うけど、大勢の人が亡くなっているわけだからねえ。

もう1つ、トルコの話をしようとして止めた理由が、写真である。コスタリカのときと違い、トルコへ行ったときはすでにデジタルカメラの時代になっていたから、旅行中に撮りまくった写真はパソコンに保存してある。

その中には、カッパドキアで乗った気球から見た景観(アイキャッチ画像参照。但し、これは私が撮った写真ではない。ネットで拾ってきたもの)だったり、イスタンブールのトプカ宮殿で、通常なら撮影不可のところ、メディア(以前所属していた某夕刊紙の取材だった)ということで特別に許可をもらって撮ったお宝の写真など、この機会に皆さんにお披露目したい写真もいくつかある。が、パソコンを買い替えたとき、古いパソコンから新しいパソコンへのデータ移行ができず、そのままであった。

以前も述べたが、古いパソコンは使用中にしばしばシャットダウンしてしまい、使いものにならなくなっていた。だから買い替えたわけだけど、その頃にはもう立ち上げるとすぐさまシャットダウンしてしまう有様で、データを取り出す間もないほどだった。

なので、新しいパソコンを買ったとき、その場にいたメーカーの兄ちゃんに言われたように、古いパソコンをその店に預け、データを取り出してもらえばよかったのだが、時間がかかるというので、そのときはとりあえず持ち帰った。なんとか自分でトライしてみようと思って。

実際、その後何度かトライして、請求書とか名刺とかの当面必要なデータはなんとか取り出せた。立ち上げてセーフモードにすると、なんとかなった。それでちょっと安心して、写真など重いデータはまた後で取り出そう、と思い、しばらくほっといた。

そしたら、今回トルコ地震があって、そうだ、トルコに行ったとき撮った写真を見てみよう、と思って、古いパソコンを立ち上げたら、なんと、起動するやいなや即シャットダウン。セーフモードにする間もないではないか。

つまり、古いパソコンに眠っているデータを取り出すのは、もう自力では無理、ということ。最後の手段は、新しいパソコンを買った店に古いパソコンを預けることだが、生来の面倒臭がりがここでも発揮され、そのうち、そのうち、と思いつつ、今になって後悔するという体たらく。やれやれ、いくつになっても変わんねえなあ。

ということで、私がトルコへ行ったときの話は、写真もないことだし、ここではしない。またいずれ機会があれば、そのときにでも。ただ、今回のトルコ大地震に際して、1つだけ言いたいことがある。それは、トルコが世界中でもっとも親日国(日本が好きな国)の1つである、ということ。トルコの人はおしなべて、日本人が、日本という国が、好きである。

このことはもちろん、トルコという国のことを少しでも知る人なら周知であるが、知らない人も多いと思うので、ここで強調しておきたい。それにしても、一体なぜ、隣国でもない、さほど近くもないトルコの人々が、日本を好きなのか?その理由は2つある、というのが定説である。

その1つは、「エルトゥールル号遭難事件」。1890年(明治23年)、オスマン帝国(現在のトルコの一部)の軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本町の沖で遭難した際、地元民が献身的に救助活動を行った。これがきっかけとなり、トルコと日本で友好の絆が結ばれた、という。その詳細は、手抜きで申し訳ないが、串本町のホームページからそっくりそのまま、面倒臭いので許可もとらずに引用する。以下、全文(一部削除)。

トルコから日本へ、親善使節団派遣

19世紀末、ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいたオスマン・トルコ帝国皇帝アブドゥルハミト2世は、明治維新後同様の立場にあった日本との平等条約締結の促進と、明治20年の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問に対する返礼などの目的で、親善使節団の派遣を計画しました。親善使節団の特使には、エミン・オスマン海軍少将(日本への航海中に提督「パシャ」となり、オスマン・パシャと呼ばれた)が任命され、使節団座乗艦としてフリゲート艦エルトゥールル号が選ばれました。

明治22年7月14日、イスタンブールの港を出港したエルトゥールル号は、スエズ運河を抜け、途中各地のイスラム教国に教主国としての威厳を示しながら寄港、明治23年6月7日に横浜港に到着しました。

オスマン海軍少将一行は、明治天皇に謁見し、アブドゥルハミト2世皇帝より託されたトルコ最高勲章および種々の贈り物を天皇に捧呈し、併せて両国の修好という皇帝の意を天皇に伝えました。これに対し、明治天皇は、使節に勲章を授け、饗宴を賜いました。

台風の季節、帰国の途へ

使節団一行は東京に3か月滞在、その間官民を挙げての歓迎を受け、明治23年9月15日、横浜港を出港、帰国の途につきました。日本国当局は、9月が台風の季節であり、またエルトゥールル号が建造後26年を経た木造船であることから、出発前に修理を行うよう勧めましたが、オスマン少将は帰途が遅れないようにと、予定通り同日出港しました。

エルトゥールル号の遭難

横浜港を出た翌日の9月16日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖を航海していましたが、同海域において折からの台風に遭遇、猛烈な波浪と強風のために航行の自由を失い、次第に樫野崎に寄せられ、古より船乗りたちにおそれられた船甲羅岩礁に激突しました。

船体破損部から流入した海水が機関の爆発を引き起こし、オスマン海軍少将以下587名が殉職、生存者わずかに69名という大海難事故となりました。

不眠不休の救助活動

この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が遭難将士のために寄せられました。

69名の生存者は神戸で治療を受けた後、同年10月5日、比叡、金剛の2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、翌明治24年1月2日、無事イスタンブールに入港、トルコ国民の心からの感謝に迎えられました。

1985年、トルコ共和国の 恩返し

イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表しました。イランに住んでいた日本人は、慌てて首都テヘランの空港に向かい出国を試みましたが、どの飛行機も満席で搭乗することができませんでした。

世界各国は自国民を救出するために救援機を出しましたが、日本からの救援機の派遣は、航行の安全が確保できないとの理由から見送られ、空港にいた日本人は途方に暮れていました。

そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコ共和国です。トルコから駆けつけた救援機2機により、日本人215名全員がイランを脱出することに成功しました。タイムリミットのわずか1時間前のことでした。

トルコ航空機DC10の写真

日本人を助けてくれたトルコ航空機DC-10

当時、テヘランには多くのトルコ人も在住していましたが、航空機を日本人に提供し、トルコ人は陸路で避難をしたそうです。

「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」

なぜトルコの航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミもわからずにいましたが、後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は当時、次のように語られました。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

受け継がれる歴史と慰霊の祭典

日本とトルコの絆は、1890年のエルトゥールル号遭難から始まりました。
遭難の翌年2月には、遭難海域を眼下に見下ろす、殉難将士の遺体が埋葬された樫野崎の地に、地元有志により「土国軍艦遭難之碑」が建立され、昭和3年8月6日に、大阪日ト貿易協会の発議で第1回遭難追悼祭が催されました。

昭和4年4月5日には、同敷地内に日ト貿易協会により追悼碑が建立され、同年6月3日には昭和天皇が樫野に行幸され、慰霊碑に会釈を賜いました。

昭和天皇の慰霊碑への参拝の報がトルコに伝わると、トルコ共和国の建国者で初代大統領であったムスタファ・ケマル(アタチュルク)はエルトゥールル号殉難将士の墓域の大改修と新しい弔魂碑の建立を決定しました。委託を受けた和歌山県が設計、施工、監理にあたり、この慰霊碑は昭和12年6月3日に除幕され、50周年追悼祭もあわせて行われました。

エルトゥールル号の遭難は誠に痛ましい悲劇ではありましたが、日本の官民を挙げての救援活動はトルコ本国に伝えられ、トルコ国民の心の中に日本に対する親愛と感謝の念を根付かせるきっかけとなりました。
串本町では、エルトゥールル号の遭難以来、第2次世界大戦中には一時的に中断したものの、トルコ共和国との共催で5年ごとに慰霊の大祭を催し、現在に至っています。

日本・トルコ合作映画「海難1890」

エルトゥールル号とテヘランの日本人救出を題材にした壮大な映画プロジェクトは、10年前に田嶋町長から大学時代の旧友である田中光敏監督に出された1通の手紙から始まります。
2009年には、田中監督が串本へ視察に訪れ、エルトゥールル号の史実を詳しく知り、映画化に向けての構想が練られました。

映画「海難1980」のイメージ画像

文化観光大臣の賛同を得たことで、映画製作は大きく動き出したのです。 2014年には、安倍首相とエルドアン大統領の後押しがあり、国家級のプロジェクト規模に膨らみます。
多くの関係者の支援と協力により、映画『海難1890』は2014年12月にクランクイン。日本とトルコでの撮影を経て、2015年12月、全国公開となりました。

串本町(https://www.town.kushimoto.wakayama.jp)より引用

余談だが、私は和歌山県にはわりと縁がある。某夕刊紙の記者時代は幾度となく取材でお世話になったし、プライベートの旅行でも何度か行った。もはや第二の故郷といっても過言ではない。いや、それはちと言い過ぎかな。ともかく、そんな次第で和歌山県内の観光名所にはたいがい足を運んでいる。

したがって、この「トルコ記念会」や「トルコ軍艦遭難慰霊碑」にも当然、行ったことがある。と言いたいところだが、残念ながらとあるアクシデントにより、取材予定だったがキャンセルとなり、いまだ未踏の地である。

トルコ軍艦遭難慰霊碑の写真

トルコ軍艦遭難慰霊碑

そのアクシデントというのが、例の東日本大震災である。アクシデントなんてもんじゃないか。その日、私は串本町にいた。いくつか取材先を回っていて、さあ、次は「トルコ記念会」だ、ということで、串本町役場の人の車に乗せていただいて、向かおうとした矢先、警報が鳴った。何事かと車を降りて、近くの土産物屋かなんかの店先でテレビを見ると、あの津波の映像が流れていた。

最初はあまり現実感がなくて、まるで映画のようだ、と思ったのは私だけじゃないだろう。が、ともかく取材はそこで中止。高台にあるホテルに避難した。そこから海岸を見下ろして、ここにも津波が来るか、来るか、と待っていたが、結局ここ串本町に津波は来なかった。

それでも、大事をとってそのホテルで待機、そのまま宿泊。翌日は朝から空港へ行ってキャンセル待ちしていたら、意外にもすんなり乗れて、帰京後も電車は乱れていたものの動いていて、とくに問題なく帰宅できた。

あっと、トルコの話が和歌山県、さらには東日本大震災のあの日にまで脱線した。話を戻す。そういうわけで私は「トルコ記念館」には残念ながら行けてないが、和歌山県串本町にそういうものがあり、それがきっかけでトルコと日本の間に友好の絆が結ばれている、ということは、知らなかった人にはぜひこの機会に知っていただきたい。そして今回のトルコ大地震に関心を持ってもらいたい。友好国として。

そしてもう1つ、トルコが親日国である理由が、「日露戦争」である。当時、西欧列強国に比べると後進国だった日本が、大国ロシアに勝った。それがトルコに人にとっては痛快で堪らない、らしい。なぜなら、トルコ人はロシアが大嫌い、だから。これはトルコに限らず、ロシアの周辺国は悉くロシアが嫌いなのだが。奇しくも現在、ウクライナ侵攻中のロシアを見ていると、さもありなん、である。

また、これは私も串本町のホームページで初めて知ったが、トルコも日本と同様、西欧列強国との不平等条約に苦しんだ歴史があるという。つまり、トルコと日本は似たような立場にあったわけで、そんな日本が、トルコを苦しめているロシアを破った、破ってくれた、ことが嬉しくて仕方ない、というのは、わかる気がするなあ。

日本だって、太平洋戦争末期に日ソ不可侵条約を一方的に破棄され、侵略されて北方領土をぶん盗られるという苦渋を舐めさせられているのだから、旧ソ連、現在のロシアに対しては、もっと怒っていいはずなのだが、まあ、そのへん、日本人は呑気だからねえ。

といった歴史があってのトルコの親日である。歴史は歴史でも、「エルトゥールル号遭難事件」よりは「日露戦争」の方が歴史が浅い、というか、現代に近い。そのぶん身近なわけで、トルコが親日国である理由としては、この「日露戦争」のほうが大きい、と私は思っている。

実際、私がトルコへ行った際、ガイドの兄ちゃんも言ってたからね。「オレが知っている日本人の名前は、TOGOだ」と。TOGO、わかります? そう、東郷平八郎ですね。かの日本海海戦で、あのバルチック艦隊を撃破したときの連合艦隊司令長官。「東洋のネルソン」とも呼ばれ、彼を祀った東郷神社というものさえある、あの軍神。

東郷神社の鳥居の写真

東郷神社

その名前が、どういう話の流れで出てきたのかは覚えてないが、たまたま会った若い兄ちゃんの口から普通に出てくるぐらいだから、いかにトルコ人が日本好きか、いかに日本がロシアに勝ったことがうれしいか、いやでもわかろうというもんだ。東郷平八郎なんて、日本の若者でも知らない人の方が多いんじゃない?

ちなみに、これもトルコ旅行中に聞いた話だけど、トルコの男性の平均寿命は50歳台だそう。正確に何歳かは忘れたけど、とにかくトルコの男性は寿命が短いらしい。早死にする、と言ってもいいのかな。なぜかはわからない。誰か知っている人、いたら教えてください。

それはともかく、今回のトルコ大地震。他でもない親日国で起こった悲劇ですから、他人事とは思わないで、友好国として支援しましょう。かくいう私も、今まではどんな震災だろうが寄付なんぞ一度たりともしたことはないが、今回ばかりはしようと思います。

なぜ今まで寄付とかしたことがないかというと、まあ、ケチでセコい性格だから、と言ってしまえばそれまでですが、それに加えて、過去何度も述べてきたように、何しろ貧乏なので。しがない中年フリーターは自分の生活だけでカツカツ。寄付なんてしている場合じゃない、というのが正直なところ。

でも、まあ、そうは言いながらも、バイトを3つも掛け持ちしてセコセコ働いてりゃ、いくらなんでも、その日のメシにも困るような貧困ド底辺からは脱出できましたけどね。最近は明日の支払いに怯えることもなくなりつつある今日この頃。ようやく、でありますが、少しは経済的余裕が出てきたかな。詳しくは言えないけど、不労所得も徐々に貰えるようになってきたし。

それでも、社会的にはまだまだ最下層。底辺からは脱出できても、老後資金なんか考えると、未だ到底、人並みとはいえない。中流階級にも届かない。フリーターだから退職金がないのが痛いよねえ。なので、寄付するといっても、ほんの僅か、それこそ気持ち、ですよ。気持ちだから金額は言わない。言えば、「なんだ、たったそれだけか」と思われるに決まっているから、言いません。そのぐらいしか寄付できない、底辺から抜け出したとはいえ相変わらず貧乏な私ですが、まあ、気持ちだけでも、しないよりはいい、と思って、寄付します。皆さんもご一緒にトルコへ寄付、いかがですか?