不登校

ついこの間岸田内閣がスタートしたと思ったら、もう衆議院解散だって。「衆議院解散は“伝家の宝刀”だ」と、どこかのニュース番組で誰かが言ってたが、その“伝家の宝刀”を首相になってわずか10日ほどで抜いてしまう、というのにどういう狙いがあるのかはわからない。そういうのをわかりやすく解説できたらカッコいいなあ、とは思うけど、しかし当方、さほど政治に興味があるわけじゃなし(それじゃダメなんですが)、無理して付け焼刃で書いてもつまんないことしか書けないだろうし……。

ただ、ニュースなんか見ていて1つ思うのは、解散が決まったとき、例によって国会でみんなで「バンザーイ!」って、やってるよね。あれ、何で? バンザイは、漢字で書くと「万歳」。これ、おめでたいときの言葉だよねえ? だとしたら、衆議院解散って、おめでたいことなんでしょうか? 誰か教えてください。

と、まあ、当コラムでは珍しく政治の話から入ってはみたが、やっぱり政治の話は止めておく。柄にもないことはしない主義なので。じゃあ、今回は何の話かというと、昨13日のyahoo!ニュースに「コロナ影響、児童生徒の不登校・自殺が過去最多に」という記事があった。なにしろ新聞を購読していないので、たいていの情報はこうしたネット配信で得ているが、配信元は「読売新聞」とあるので、新聞にも掲載されていたはず。だけどその日は衆議院解散の話題一色で気が付かなかった人も多いと思うので、ちょっとここで取り上げてみたい。以下、yahoo!ニュースより引用。

 

「コロナ影響、児童生徒の不登校・自殺が過去最多に…昨年度「子供たちの生活に変化」

全国の小中学校で2020年度に不登校だった児童生徒は前年度比8・2%増の19万6127人で過去最多となったことが13日、文部科学省の問題行動・不登校調査でわかった。新型コロナウイルスの「感染回避」のため、長期間にわたり登校しなかった小中高生は3万人を超え、自殺者は415人で最多だった。文科省は「コロナ禍が子供たちの生活に変化を与えた」と分析する。

調査は毎年、国公私立の小中高校と特別支援学校を対象に実施。「不登校」は病気、経済的理由、感染回避などを除いて年間30日以上登校していない状況を指す。小学生は6万3350人(前年度比18・7%増)、中学生は13万2777人(同3・8%増)で、いずれも8年連続で増加。前年度から計1万4855人増えた。(中略)

新型コロナの感染拡大を受け、全国の学校では昨年3月から一斉休校が実施された。多くの学校では同5月まで休校が続き、その後も夏休みの短縮、修学旅行や運動会の中止などで学校生活は一変した。また、学校以外で行う多様で適切な学習活動の重要性を認めた「教育機会確保法」が17年に施行され、フリースクールなどでの学習も広く認められるようになった。こうした面も、不登校の人数を押し上げる要因になったとみられる。(中略)また、20年度に自殺した小中高生は415人で前年度から98人増えた。1974年に調査を開始して以来、最多となり、文科省は「家庭で居場所のない子供たちの救いの場になっていた学校がコロナ禍で休校になり、行事も中止や延期になった影響もある」とみている。(以下略)

 

いかがだろうか。現在、小中学校に行っていない、いわゆる不登校の生徒が全国で19万6127人もいる、という事実はなかなかの衝撃ではないだろうか。あるいは、小中学生の自殺者415人、という数字のほうがショック、という人もいるだろう。ともに過去最多だそうで、いやはや、コロナで大変なのは大人だけではない。むしろ子供のほうがより大きな影響を受けている、ということかもしれない。こうした子供の問題は、子供を持つお父さんお母さんや教育界だけの問題ではない。一般人もすべからく、子供がいない人であっても、常に関心を持って、子供たちのためのより良い未来をつくっていく努力を欠かしてはいけない、と思う。子供は国の未来を担う宝なのだから。

と、真面目なことを熱く語るのは柄ではないので置いといて、今回なぜこの記事を取り上げたかというと、じつは私の高校の同窓生が、福岡で何やら変な学校をやっていて(運営している、ってことね)、それは不登校の生徒のための学校、と聞いてはいたけど、詳しいことはいまいちわかってなかった。そんな折、この記事を読んで、ああ、そうか、彼(名前は小田哲也、皆からはテツ、またはテッちゃんと呼ばれています。私もテツ!と呼んでいますが、ここで呼び捨てもなんなので、“テッちゃん”と表記します)がやっているのが、記事の中に出てくる「フリースクール」というやつなのね、と今さらながら、やっと理解した次第。ほほう、17年に「教育機会確保法」が施行され、「フリースクール」が広く認められるようになった、と。よかったね、テッちゃん。

もっとも、彼が運営している『箱崎自由学舎ESPERANZA』(と言います。めんどくさいので許可も得ずに名称出すけど、いいよね?)は、2020年3月5日、認定NPO法人格を取得している。つまりそれは、「公益性が高く、運営組織や事業活動が適正と認められた」ということであり、しかもこれ、「全国でも僅か2%の優良法人!!」であるそうな。そういう知らせが嬉しそうに私にも来ていた。どうやら私が思っているよりもずっと、ちゃんと、立派にやっているらしい。何やら変な学校、などと失礼なこと言ってすまん、すまん。

さらに、そのお知らせには「寄付をしていただいた皆様は“税制上の優遇措置”を受けられるようになりました!」とあり、控除のやり方など説明していたが、貧乏人の私は年5000円しか寄付しておらず、5000円は控除対象外だそう。もっと気前よく寄付してやりたいのはやまやまだけど、今は自分の生活だけでカツカツなので。もっと稼げるようになったら、ドカン!と寄付するよ。って、口だけだけど。

というわけで今回は、以前当ブログで紹介した故・中村哲医師と、元ラグビー日本代表の福岡堅樹くんに続き、私の高校つながりで、『認定NPO法人 箱崎自由学舎ESPERANZA』を運営している小田哲也くん、通称テッちゃんをご紹介。念のため言っておくと、中村哲医師は高校(と大学も)の先輩、福岡堅樹くんは高校のはるか下の後輩、そしてテッちゃんは高校の同級生ね。高校つながりばっかりで申し訳ない。

ただ、中村医師や福岡くんとは会ったこともない(得意げに紹介しておいてなんだけど)が、テッちゃんとは高校時代バスケット部でともに汗を流した仲であり、東京と福岡で離れて暮らす今でもたまに連絡がある(ほとんど『箱崎自由学舎ESPERANZA』の活動報告だけど)ので、まあ、身近というか、気の置けない友人と言っていい。そういう友人をこうして紹介するのはなんだかちょっぴり誇らしくもあるが、逆に親しすぎて書きづらくもある。でも、まあ、ここまで書いたからには、続けてみよう。

テッちゃんの性格は、とにかく明るくて、社交的。悪く言えば騒々しくて落ち着きがない(笑)。そんな超がつくほど明るい、今の流行り言葉でいえば“陽キャラ”の彼が、それとはほぼ逆の、どちらかといえば“陰キャラ”の私と、なぜかウマがあった、とは私の一方的な思いで彼は否定するかもしれないが、少なくとも早40年来の友人の1人として、付き合いが今でも続いているのは、ひとえに彼の呆れるほどの社交性のおかげである。とりあえず彼に連絡しとけば、たちどころに懐かしい面々との会合などセッティングしてくれるし、私が連絡先を知らない旧友とも彼ならたいていつながっているという、人付き合いが下手な私にとっては大変便利な存在でもある。

そんな常に人の輪の中心にいるテッちゃんは、私が思うに、やっぱり“学校”が好きなんでしょうな。私のような集団行動や規則が嫌いな人間からすると、“学校”にはあまりいいイメージはないが、テッちゃんは人が好きだから、人が集まる“学校”が大好き。“学校”が好きだから、就職先の志望も教師であった。地元の私立大学に進学したテッちゃんは大学卒業後、希望通り、地元のとある女子高の教師となった。

ここで思い出したのだが、何を隠そう、その女子高をテッちゃんに紹介したのは私である。当時、その女子高の校長をやっていたのが私の母の兄、つまり叔父だったので、私がテッちゃんを連れて2人で会いに行った記憶がある。まあ、それだけの話でたいしたことではないが、せっかく思い出したので、恩着せがましくここに記しておく。しかし、今にして思えば、私立女子高の校長がどれほどのものかは知らないが、一介の就職活動中の学生が、よくまあ簡単に校長に会えたよなあ、という気がしないでもない。よく覚えてないが、多分、私の母が連絡してくれたので簡単にアポが取れたのだろう。まあ、親戚とはいえ、大らかな時代でしたな。

そこでもう1つ思い出したのだが、その時、私は同伴しただけなのに、なぜか校長(叔父)から「お前は何やってんだ!」と怒られたなあ(笑)。当時、私は留年を繰り返す超劣等生であった。母方の親類はその叔父を筆頭に教育者が多い家系だったので、私も大学に入ると「教職課程だけはとっとけ」と言われていたが、教師になる気などさらさらなかった私は当然、そんな面倒なものはとっておらず、それが叔父は気に食わなかったらしい。そりゃそうか。でも、まあ、テッちゃんのことは気に入ったようで、わりとあっさり採用が決まった。そりゃあ、校長が諾といえば反対なんかないでしょう。

余談だが、その後20年、いや、30年ぐらいかな? 長らく校長を勤めた叔父が亡くなった後は、その息子(つまり私の従兄弟)が後継者となり、現在校長を務めている。そういえばその息子もやっぱり、私やテッちゃんと同じ高校卒である。田舎の人間関係なんてそんなものだろう。

さて、希望通り教師となったテッちゃんは、バスケットボール部の顧問にもなり、楽しそうに教師生活を送っていた。まあ、何をやらせても楽しそうにやるやつではあるが。ちなみに私も呼ばれて女子高生相手の練習相手になったりしていた。懐かしいなあ。ところが、何年間勤めたのかは知らぬが、テッちゃんはある日、突然その女子高を辞めた。そしていつの間にか海外青年協力隊に入隊し、颯爽と海外へ飛び立ったではないか。

なんと、せっかく俺が紹介してやったのに、あっさり辞めやがって、コノヤロウ、とは、まったく思わなかった。ただ面接に付き添っただけで、別に世話とかしたわけではないからね。むしろ逆に、ちょっと嬉しかったぐらい。というのは、海外青年協力隊が行くところはたいてい辺鄙な、観光旅行ではまず行かないような国である。そういう国に友達が住んでいるというのは、旅行好き(私のことです)にとっては千載一遇のチャンスといえる。行けば泊めてもらえるから。

ただし、海外青年協力隊員の任期は短くて、テッちゃんが最初に行ったところはたしかコロンビアだったと思うが、私がそこには行けないうちに任期が終わった。しかし、その後もテッちゃんはJICA(独立法人国際協力機構。海外青年協力隊はここが派遣している)の調査員だか何だか詳細はわからぬが、引き続き他の国、たとえばドミニカとか、ニカラグアとかに滞在していたので、私もその時を狙って、はるばるドミニカまで行ったし、ニカラグアに行ったときは、隣国のコスタリカまで車で遊びに行ったりして、楽しかったなあ。そうそう、ドミニカに行ったのは新婚旅行の代わりだった。その後離婚してしまったけど、これはこれでいい思い出である。

またまた余談だが、JICAは日本の政府開発援助を一元的に行う実施機関である。その日本の政府開発援助を「ODA」という。「ODA」は「小田(オダ)」とも読めるよね。だから小田テッちゃんがODAに関わる仕事をするのは、運命だった、というのはさすがに強引すぎるこじつけだけど、まあ、青年海外協力隊にしても、その後のよくわからぬ調査員にしても、教師時代よりは楽しそうにやっていたから、結果的によかったんじゃないの、と思う。もっとも、何をやらせても楽しそうにやるやつではあるが。

だからテッちゃんが帰ってきた、と聞いたときは寂しかった。もっと色々な国へ行ってくれよ、オレも行くから、と思った。そんなこと言うと「人の人生を何だと思っているんだ!」と怒られそうだが、ともあれ、そうした経緯、というか経歴を経て、福岡に帰ってきたテッちゃんが、次は何をやるんだろう? と思っていたら、これまたある日突然、私の元に届いたのが、件の『箱崎自由学舎ESPERANZA』開校のお知らせと、寄付のお願いであった。

その時、私はちょっと反対した。寄付するのがイヤだから、じゃないよ(正直いうとちょっとイヤだったかな、最初は)。反対の理由は、そんな個人で立ち上げた学校なんて、お金の面で苦労するに決まっている、と思ったから。実際、『箱崎自由学舎ESPERANZA』の校舎は、小田家が所有していたオンボロ長屋(今どき長屋なんてないよね)で、じつは私も大学在学中(留年を繰り返してた長~い大学生活だった)そこに下宿させてもらった時期があり、その当時の家賃が1万5千円。その破格の家賃からもオンボロぶりが伺えようというものだが、そんなオンボロ長屋(何度もオンボロ、オンボロと言ってすまんが)を校舎として『箱崎自由学舎ESPERANZA』はスタートした(現在も変わっていないようだ)。そのことだけでも、まあ、いかにもお金はなさそうだよねえ。

ところが、予想に反して、寄付は順調に集まったようで、そこはさすが、テッちゃんの生来の顔の広さがここで活きた、ということだろう。友人として見上げたものだと思う。もうずいぶん前になるが、たまたま福岡で仕事があったとき、『箱崎自由学舎ESPERANZA』様子を見に行ったことがあるが、かつて私も下宿していたオンボロ長屋は、ちゃんとリフォームされていて、見違えるほど、とは言い過ぎだが、一応、教室になっていた。頑張っているなあ、と思いましたね。

かくして、もうかれこれ、10年?いや、20年近いかな? 予想に反して(失礼!)続いている『箱崎自由学舎ESPERANZA』と、相変わらず楽しそうなテッちゃんを見るにつけ、最初は少し反対したものの、今では応援している。どころか、私の今の現状を鑑みて、羨ましく思うことさえある。というのは、前回のブログで書いたように、本業はライターだけど実質はフリーターである私の今の目標は、「お金がなくても胸を張って、笑って暮らせる人生」である。貧乏なのはもう仕方がないので、貧乏人なりに、私の人生はこうです、と胸を張って、卑下をせず、笑って生きていたい。その点、私が見るに、今のテッちゃんのやっていることは、「お金はないけど、社会に貢献しているよ」と、胸を張って言える仕事だと、オレは思ってるよ、テッちゃん。この話はいつかテッちゃんが東京に来て浅草で飲んだ時、少しだけチラッと言ったことがあるけど、多分覚えてないと思うので、また今度、ゆっくり話ができたらいいね。ということで、つい長くなってしまった40年来の友人の話を、まだまだ話したいことはあるけど、それはまた別の機会で書くとして、今回はここで一旦締めます。最後まで読んでいただきありがとうございました。