今回はちょっとしたご報告があります。当ブログを掲載しているホームページの発行元であり、無戸籍問題の解決と無戸籍でお困りの人や障害を持つ方を支援し、将来に役立つ教育の場の提供を目標としている一般財団法人アラドラでは、この度、東京都中央区にある「鉄砲洲神社」への寄附を行いました。パチパチ。
「鉄砲洲神社」、正確にいえば「鉄砲洲稲荷神社」ですが、平安時代初期の841年、凶作に悩む荏原郡桜田郷の住民が土地生成の産土神(うぶすなのかみ)を「生成太神(いなりのおおかみ)」として祀ったのがはじまり。その後、入江の埋め立てに伴い京橋へ遷座、さらに室町時代末期に後の新京橋(現在の銀座一丁目付近)へ遷座し、「八丁堀稲荷神社」と称したそうです。
江戸時代初期の寛永元年(1624年)には桜川が亀島川と合流する稲荷橋南東詰(現在の湊一丁目八番地付近)に遷座。江戸の水路網の入口に位置することから全国の船乗りの崇敬を集めました。寛政2年(1790年)には富士塚も築造。この富士山の溶岩を用いた富士塚は「鉄砲洲富士」と称され、現在も区内唯一の富士塚として境内にあり(現在の高さは5.4m)、頂上には「末社鉄砲洲富士浅間神社」が鎮座しています。
江戸時代後期になると、吉田家(卜部氏の流れをくむ公家・華族の家)より「湊神社」と名付けられ、また「浪ヨケイナリ」とも称され、人気を博していたそうです。安藤広重の『名所江戸百景』でも「鉄砲洲稲荷神社」の朱塗りの壁と社殿が描かれています。
そして明治元年(1868年)の土地収用により120mほど南の現在地に遷座。大正12年(1923年)の関東大震災で大被害を蒙ったものの、昭和10年(1935年)以降本殿や神楽殿が再興され、現在の形が整いました。昭和20年(1945年)の東京大空襲では被害を免れ、昭和初期の神社の形を今に伝えています。
この「鉄砲洲稲荷神社」の例大祭が5月の2~5日、つまりゴールデンウイーク期間中に開催されたので、それに合わせて寄附をした、というわけです。というと、いかにも私がやったように聞こえますが、私は一切関知しておりませんのでご安心ください。ただ、後日、アラドラ主催者の方から、寄附したよ~、というLINEと写真が送られてきた、それだけの話です。
それだけの話だけど、まあ、LINEのグループに入っているわずかな人だけしか知らないのはもったいないので、余計なお世話かもしれないけど、ここで報告することで、より多くの人たちに知っていただきたい、と、かように思う次第であります。まあ、ここで報告してもたいして効果はないでしょうけど。
「例大祭」も、私は行ってないから知らないけど、今年は盛り上がったみたいですね。今年初の試みとして御本社神輿の展示が銀座で行われたり、子供歌舞伎が奉納されたりして。もし事前に知っていたらちょっと観てみたかったけど、文字通りの“後の祭り”。来年のGWは、今年同様、普段と変わりなく仕事してたら、夜勤明けにでも行ってみますかね。もし覚えていたら。
ちなみに、ここでは“寄附”と表記しましたが、一般的な表記は“寄付”です。“寄附”は法令になど関わる場合の特殊な表記となります。同じ意味ですが、使用される場合や場面で表記が異なるというわけです。なので、“寄附”と表記する人は、それだけ公文書を見たり書いたりする機会が多い人、と察せられます。私は違いますけどね。
もう1つちなみに、“寄付”とは、団体や組織などに金品を贈ることを意味しますが、神社や寺院に金品を贈る場合は、“寄進”といいます。今回の場合がまさにそうですね。“寄付”は一般的にどんな団体や組織にも用いられるのに対し、“寄進”は神社や寺院に対してのみ用いることができる言葉で、それ以外の施設に対して用いることはできないそうです。広い意味ではお賽銭も“寄進”に含まれるといいますから、意外と身近な言葉なのかもしれませんね。
“寄進”と似たような言葉に“奉納”というのがありますが、その対象は仏様と神様です。「仏様や神様にお供えものを収める」のが“奉納”で、金品に物品に限らず、芸能や行事といった形で贈ることも含まれます。絵馬に願い事を書いて納めるのも“奉納”です。ただし、対象は神様仏様であっても、実際にお供え物を収める場所は神社や寺社で、それを扱うのは寺社に仕える人なので、“奉納”と“寄進”とが明確に区別されていない場合もあります。
では、ここで問題です。“寄進”の反対語は何でしょうか? え?金品を贈るという行為に反対語なんてないだろう、と思われた方、多いですよね。私も最初はそう思いました。ところが、調べてみると、あるんですねえ、それが。“寄進”とは、正確にいうと、「寺社に自ら金品を寄付すること」です。この“自ら”がヒント、といえばもうお分りの方もおられるでしょう。
そうです。“自ら”寄付するのが“寄進”だとしたら、その反対は、“人に勧められて寄付する”という意の、“勧進”です。“勧進”といえば、「勧進帳」ですね。勧進という言葉を知らなくても、「勧進帳」はご存じの方は多いでしょう。歌舞伎の演目として。いや、私は歌舞伎なんか全然詳しくないけど、「勧進帳」という演目があることぐらいは知っていた。けど、その内容までは知らなかったので、調べてみたら、なんと、義経と弁慶の話だったんですねえ。
兄の頼朝に追われていた義経一行が奥州へ向かう道中、加賀国の安宅関(あたかのせき)を山伏の姿に化けて通ろうとしたところ、待ち構えていた関守の富樫左衛門に阻まれ、尋問される。そこで武蔵坊弁慶が機転を利かせ、焼失した東大寺の再建のため“勧進”を行っているのだと主張すると、富樫は弁慶に「勧進帳」を読め、と命令。もちろん「勧進帳」など持ってない弁慶は、別の巻物を開くと、それを本物と見せかけて「勧進帳」の文言を暗唱してみせた―――なるほど、ありましたねえ、そんな話。昔どっかで聞いた覚えはあるけどすっかり忘れていた話をこの機会に思い出せてよかった。
さらに、強力(山伏に伴って荷物をは運ぶ従者)に化けていた義経が疑われると、弁慶が義経を杖で打ち据える。それを見た富樫は、弁慶の気持ちに打たれ、頼朝の命を破って一行を見逃してやる、といった続きもあって、ええ話やなあ。世間の人々の義経への「判官びいき」を際立たせるエピソードの1つでしょう。
ちなみに(今回は、ちなみに、が多くてすいません)、武蔵坊弁慶の出身は和歌山県の田辺市。これは知っている人は少ないんじゃないかな? 私は和歌山県へは結構取材等で行ったことがあり、とくに和歌山県に縁はないわりには詳しいので、ちょっと蘊蓄を披露してみました。それにしても、今回は“寄付”からずいぶん話が広がったなあ。
あ、“寄付”といえば、私も以前このブログで、トルコ大地震が起きた際に、寄附しようかな、と書いた。トルコへは行ったことがあって、世話にもなったし、楽しかった思い出もあるからね。もしかしたら、その話はどうなった? と、覚えている方もおられるかもしれないので、それについても一応ご報告申し上げます。
トルコへの寄付、しました。金額は、非公開とさせていただきます。まあ、言うのが恥ずかしいぐらいの少額ですよ。ほんの小遣い程度。なにしろ貧乏人だし、他にも私の友人が運営している「NPO法人・箱崎自由学舎ESPERANZA」(不登校の生徒のためのフリースクール)にも寄付しなきゃいけないから、それで勘弁してください。
寄付の宛先は、色々あって迷ったけど、結局、「ユニセフ」にしました。どれがいいのか皆目わからなかったので、まあ、あれだけ有名な「ユニセフ」なら間違いはないだろう、と思って。よかったですかね?
それはいいとして、寄附した後ですが、メールでもLINEでも「ユニセフ」の広告が頻繁に表示されるようになって、うわ、うぜえ、と思いましたね。失敗だったかな、とも考えた。でも、まあ、「ユニセフ」の広告がなくても何かしら他の広告が表示されるわけだから、いいけどね。
そうした「ユニセフ」の広告は、ほとんどがウクライナへの支援を訴えるもの。そりゃ、世界でいま一番大変なのはウクライナかもしれないけど、私がもう1つ寄付するなら、これも過去行ったことがあるミャンマーにしたい、と思っている。やっぱり、行ったことがない国よりも、自分が行ったことがある国へ、寄付したいよねえ。と、私は思いますが、皆さんはいかがですか? というわけで、今回はこれにて。とくにオチもないまま(いつもそうだけど)で失礼します。