大吉原展

大吉原展 ポスター

私が現在住んでいる小さなボロいマンションは、住所でいえば東日暮里だが、最寄り駅は日比谷線の三ノ輪駅となる。上野から日比谷線でわずか2駅。その1つ前は入谷駅で、最近ハマっている入谷飲みのときは歩いて行けるし、JR鶯谷駅も徒歩圏内。ちょっと足を伸ばせば上野公園までも余裕で歩けるから、博物館や美術館巡りが好きな私にとっては好立地といえる。

また、上野からみて三ノ輪の次は南千住、その次が北千住。南千住にはまだ行ったことないけど大きなショッピングセンターがあり、北千住は言わずと知れた飲み屋街で有名店や人気店が目白押し。北千住には取材で何度か訪れたことがあるが、プライベートで飲みに行ったことはまだないので、これから開拓するのもいいな。せっかく近くに住んでいるんだから。

で、話は三ノ輪に戻る。東京の下町といわれる地はどこもたいてい神社仏閣が多いものだが、三ノ輪もその例に漏れず、この辺りにもあちこちに寺や神社が点在している。その中で恐らく最も有名であろう、と思われるのが、「浄閑寺」である。通称、いや、俗称は「投げ込み寺」。といえばもうおわかりの方もおられるだろうが、吉原の遊女たちを葬ったとされる寺である。

そもそもは旅の途中で行き倒れるなどした身元不明の死体を葬ったことから、「投げ込み寺」と呼ばれる寺は全国各地にあるが、ここ「浄閑寺」の場合は、安政の大地震で犠牲となった吉原の遊女たちが、文字通り投げ込まれるように乱暴に埋められた、とか、もっとひどい話だと、梅毒を患った遊女が生きたまま埋められた、など諸説あり、その真偽はともかく、代々吉原の遊女を弔った寺であることは事実らしく、境内には遊女を供養する新吉原霊塔や、遊女を題材とした小説を数多く手がけた小説家・永井荷風の筆塚と詩碑が建っている。

なんていかにも知ったように書いたものの、じつは私、近くに住んでいながらまだ「浄閑寺」へは行ったことがない。いつものことだが、ネットの情報をまとめただけの手抜きですまん。が、それにしても「浄閑寺」には、他にも山谷の労働者を供養するひまわり地蔵や、年季明け直前に客に切られて亡くなった遊女・若紫の墓、父の仇討ちをしようとして返り討ちにあった兄弟・助七と助八の墓などのちょっとした史跡が多々あって、興味深い。

浄閑寺 新吉原総霊塔

浄閑寺 新吉原総霊塔

ちなみに、若い頃から遊郭に通い、遊女の人情や悲しみを綴った永井荷風は、生前度々この「浄閑寺」を訪れたばかりか、自分が死んだらこの寺で遊女の無縁仏と一緒に弔ってほしい、とまで言っていたそうだ。そんなこと知ればますます行ってみたくなるよねえ、浄閑寺。永井荷風はあんまり読んだことないけど。

そんな「浄閑寺」があることからもわかるように、私が現在住んでいる三ノ輪は吉原に近い。ということを言いたかったのだが、そのために「浄閑寺」を引き合いにしたのは、ちょっと回りくどかったかな。「浄閑寺」は知らなくても、その筋に詳しい人なら、三ノ輪が吉原に近いことぐらい当然知っているからね。あ、その筋というのは、風俗とか、そっち方面のことね。

但し、これははっきり申し上げておくが、私が三ノ輪へ引っ越してきたのは、吉原に近いから、という理由ではないよ。たまたま、当時の仕事の都合で日比谷線の沿線で物件を探したところ、なぜか三ノ輪に安い物件が多かったので、その中から選んだだけ、の話。吉原へは行ったことがない、とは言わないが、まさかそれで住居を選んだりはしませんよ、と、弁明すればするほど、墓穴を掘りそうになるのは何故だろう?

いや、ほんとですよ。その証拠というのも変だが、三ノ輪に越してきてからは一篇たりとも吉原で遊んだことはない。ましてや風俗自体、離婚して一人暮らしをはじめてからは一度も行ってない。なにしろ、その頃は養育費の支払いとかあって、貧乏だったからねえ。遊ぶお金がなかったし、あっても遊ぶより貯金しなきゃ、だった。まあ、さほど遊びたい、という気が起きなかったのは、歳のせいもあるだろうが。

おっと、私の話はどうでもよかった。今は遊んでないのはわかったけど、昔の若い時分はどうだった?などとギクリ、とする質問が来る前に、今回の本題に移る。相変わらず長くて回りくどい前置きのせいでわからなかった人も多いだろうが、今回の本題は「吉原」。といっても、現在のソープランド街となっている「吉原」ではない。江戸時代、単なる遊郭の域を超え、文化発信の中心地であった「江戸吉原」。そこで花開いた文化と芸術の全貌に迫る、『大吉原展』へ行ってきました。というのが今回の話である。

今年3月26日から5月21日まで、「東京藝術大学大学美術館」で開催された『大吉原展』。またしてもとっくに開催終了した今頃になっての掲載は、いつものことなのでお許しください。また美術館か、と思われた方にも、はい、またです、すいません。と謝ります。が、しかし今回は、美術館は美術館でも、本邦初(私にとって、だけど)、それまではその存在さえ知らなくて、この『大吉原展』で知って初めて行った美術館、それが「東京藝術大学大学美術館」であることは、強調しておきたい。

東京藝術大学大学美術館

東京藝術大学大学美術館

なんせ、上野公園の中、といっていいのか、上野公園に隣接、といった方が正確なのかわからないが、とにかくそこに「東京藝術大学」という日本唯一の国立総合芸術大学があることさえ、知ったのは昨年末から今年にかけ、「東京国立博物館」を皮切りに「東京都美術館」「国立西洋美術館」「上野の森美術館」など立て続けに上野公園を訪れるようになってから、なので大学美術館なるもの自体が初体験。

まあ、今思えば、藝術大学というからには、校内に美術館があっても不思議ではないけどね。それにしても、立派で、瀟洒で、さすが藝大、といえる美術館であった。芸術大学、ではなく、藝術大学、と書くところにプライドを感じる。けど、「東京藝術大学大学美術館」と、大学の文字がタブるのは拘りすぎかな。「東京藝術大学美術館」でいいんじゃね?

この「東京藝術大学」と「東京藝術大学大学美術館」へは、「東京国立博物館」と上野公園を隔てた一般道を言問い通り方向へ進めばすぐわかる。しかし、当日はそれを知らなくて、地図では「東京都美術館」の上だから、まずは「東京都美術館」の前まで行き、そこから廻ろう、と思ったが、歩いても歩いてもそれらしき建物が見つからない。代わりに、恐らくは明治初期、日本における西洋建築の走りと思しき、いかにも歴史を感じる建物が現れた。個人的には、札幌の時計台を彷彿とさせたその建物の名は、「奏楽堂」。表に回るとそう書かれた石碑が建っていた。

「奏楽堂」は、正式には「旧東京音楽学校奏楽堂」、略して「旧奏楽堂」という。後で知ったが、「東京藝術大学」の構内にあるコンサートホールも同じく「奏楽堂」という名称らしいので、間違えないように。現「東京藝術大学音楽学校」の前身である「東京音楽学校」の施設として明治23年に建築された「旧奏楽堂」は、かつて2階の音楽ホールで滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕作が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾るなど、近代日本の音楽教育の中心的な役割を果たしてきた。

創建から80年近く経た昭和40年代に入ると、建物の老朽化が著しく、校舎を都外へ移転する計画が持ち上がる。しかし昭和58年、台東区が東京藝術大学から譲り受けることとなり、昭和62年に現在の地へ移築・復原。翌年、日本最古の洋式音楽ホールを有する建造物として重要文化財に指定された。建物の一般公開や音楽資料の展示はもちろんのこと、現在もクラシック専門ホールとして演奏会なども行われている、まさに“生きた文化財”である。

これは思わぬ発見!であった。いやあ、上野公園にはこんなのもあるんだなあ、奥が深いなあ。ということで、予定はしてなかったが、ついで、というか、せっかくなので、入館料300円を払って、入った。入ってよかった。面白かった。資料室には、音楽好きなら堪らないであろう楽譜や歌詞や制作ノート、時代を表す印刷物等が満載。実際に弾けるミニチュアのパイプオルガンなんかもあった。オルガンを弾ける人が羨ましいなあ。

資料の中には、私のような音楽には門外漢でも知っている名前が結構あって、身近に感じる歴史の証言、あるいは、誰しも覚えがある時代の足跡、などが垣間見え、音楽にはさほど興味がない、という人でも十分楽しめる。2階の音楽ホールは、その厳かな雰囲気もさることながら、ステージの背景に聳える日本最古のパイプオルガンに瞠目。

これはここに最初からあったものではなく、紀州徳川家の徳川頼定という音楽愛好家として知られた人物が、自宅の敷地に「南葵堂」という音楽ホールを建設するにあたって、イギリスから輸入したもの。その後関東大震災で「南葵堂」は損壊するも、パイプオルガンは奇跡的に無事だったことから、昭和3年に「旧奏楽堂」に寄贈された。

そうした経緯から“奇跡のパイプオルガン”とも呼ばれる、100年以上の歴史を持つこの巨大楽器は、現在もコンサートでその華麗な音色を響かせている。というのももちろん後で知ったことだけど、そんな話があるなら、一度はその音色を聴いてみたいもんですな。つい先日の健康診断で左耳がの難聴を指摘されたばかりだけど。

かくして、たまたま見つけて入った「奏楽堂」、もとい、「旧奏楽堂」は、たまたまにしては予想以上の観応え、充実ぶりで、ほんとはもっとじっくり時間をかけて観たかったが、ここで時間をとられてしまうと、今回の目的である「大吉原展」が観れなくなる。なので足早にざっと巡って、めっきり薄くなった後ろ髪を引かれる思いで、「旧奏楽堂」を後にした。

ざっと巡ったのでこの時は気が付かなかったが、後で知ってぜひ紹介したい蘊蓄をもう1つ。「旧奏楽堂」の玄関横に、「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家・朝倉文夫作の滝廉太郎像がある。朝倉文夫と滝廉太郎は高等小学校の同窓だそうで、像の裏側には朝倉文夫を思いが刻まれており、その解説パネルが1階展示室のちょうど滝廉太郎像の後ろの窓に展示されていて、滝廉太郎の背中を見ながら読むことができるという。粋な演出ですな。しかし当日は滝廉太郎像があったことさえ気が付かなかったからね。もったいない。まあ、上野公園は近いから、また行こう。

というわけで、時間も押し迫って少々焦り気味に「東京藝術大学美術館」、もとい、「東京藝術大学大学美術館」へ到着。大学を2回も書かせるなよ。と文句を言いつつ、江戸アメイジング「大吉原展」に入場した。

東京藝術大学大学美術館

東京藝術大学大学美術館

入場するとイの一番に、細かい文言は忘れたが、要するに、「同展は売春を容認するものではありません!」という主旨が書かれたパネルがお出迎え。そりゃあ、まあ、そうだろうなあ。江戸時代の吉原は幕府公認の遊郭だったが、昭和31年に成立・公布、翌昭和32年に施行された「売春防止法」、通称・売防法により、日本国内での売春は禁止されている。

従って、いくら吉原が江戸文化発信の中心地だったとはいえ、その文化を紹介することが、売春を容認している、と受け取られると、マズい。現在の法律に反してしまう。なので、売春を容認する展示会ではない、ということは、最初にはっきり、言っておかなければならない。というのは理解できる。売春はダメだけど、文化ならOK、というのも際どい話だけど。

同展のパンフレットには、こんな1文がある。「江戸の吉原遊郭は現代では存在せず、今後も出現することはありません」・・・・存在しているけどね、今でも。たしかに遊郭はないが、ソープランドとかたちを変えて。しかも、そこでは、禁止されているはずの売春も堂々と行われている。ということを知っている人は知っている。

どういうことか。現在、いわゆる性風俗と呼ばれる業種は、ファッションヘルスやピンクサロン、イメージクラブにSMクラブなど多種彩々。ここではとても書き切れないほどありとあらゆる業種業態が乱立し蠢いているが、そのほとんどすべては防売法の下に本番(の意味はわかりますね)を禁止している。本番さえしなければ、売春ではない。というわけだ。

逆に、本番以外なら何でもOK、とばかりに手を代え品を変え、様々な業種や業態が生まれてくるのがこの業界の逞しさ。でもあるのだが、もしも、その中で本番OKの店があったなら、それはモグリだ。つまり、法律違反だとわかっていながら密かにやっていて、見つかったら手が後ろに回るのを覚悟しているか、あるいは、バレたらすぐ逃げるか、まあそういう店である。そうした店がもし摘発でもされると、経営者や従業員だけでなく、遊んだ客まで捕まるから、お気をつけ遊ばせ。

ところが、だ。そうした性風俗の中で唯一、本番が堂々OK、警察も黙認しているのが、ソープランドというわけだ。なぜか?は、わからない。わからないけど、わからないなりに推測すると、江戸幕府が崩壊し、明治維新を迎えて世が変わると、それまで江戸幕府の公認だった遊郭は赤線、それ以外は非公認の青線、という区別ができた。そしていざ昭和32年に売防法が施行されると、非公認の青線は厳しく売春を取り締まれたが、公認されていた赤線では、大人の事情などもあって、はい、そうですか、とはいかず、やむなく目を瞑ることにした。見て見ぬふりをした。

そのへん、正確に説明しようとすると、ソープランドは特殊浴場とかなんたらいう名目で、他の性風俗とは一線を画しており、経営者は浴室を個人事業主であるソープ嬢に貸すだけ、嬢と客の自由恋愛には関与しない、などなど、もはや屁理屈のような文言を要する。ずいぶん昔にライター仕事でそういう説明文を読んだことがある。が、詳細はすっかり忘れたので、これに関する記述は打ち止め。新たに調べ直すのも面倒臭いので、止めときます。

台東区千束のソープ街

ただ、売防法で禁止されているはずの売春が、いまだにソープランドに限っては堂々と行われており、それを警察も黙認しているという事実については、まあなんというか、世の中とはそういうものだ、ということでしょうね。パチンコやスロットも似たようなもんで、換金は禁止のはずなのに、三角法とかなんとかで堂々と換金できるからね。もう一度言うが、世の中とはそういうもの。なんでしょう、きっと。

おっと、いかんいかん。脱線しすぎて、肝心の「大吉原展」についての話がまだだった。しかしすでに文章長過ぎているので、後は簡潔に、例によってパンフレットからの引用になりますが、もう少しだけお付き合いください。

今回の「大吉原展」は、江戸幕府公認の遊郭・吉原の、他の遊郭とは違い、吉原だけに備わっていた公界としての格式と伝統に注目。季節ごとに催事を行い、常に文化発信の中心地であり続けた江戸吉原は、たとえば3月にだけ桜を植えるなど、贅沢に非日常を演出する虚構の世界でもあり、それゆえに多くの江戸庶民に親しまれ、地方からも無数の人々が吉原見物に訪れた。そうした吉原への期待と驚きが多くの浮世絵師たちによって描かれ、蔦屋重三郎ら出版人や文化人たちも吉原を舞台に活躍した。

そして今、かつての失われた吉原遊郭における江戸文化と芸術について、ワズワース・アテネウム美術館や大英美術館からの里帰り作品を含む国内外の名品の数々を展示し、歴史的検証とともにその全貌に迫る本展は、厳選した浮世絵作品を用いて吉原の文化やしきたり、生活などを映像も交えて解説する第一部、そして菱川師宣、喜多川歌麿、酒井包一らが描いた風俗画や美人画を紹介しながら江戸時代を変遷を辿り、高橋由一の《花魁》を経て変貌していく近代の様相までを通覧する第二部、さらに、吉原の五丁町を歩いているように感じられる展示室全体の演出を試みた第三部、の三部で構成。浮世絵を中心に、工芸品や模型も交え、季節ごとの行事も巡りながら、客の作法や遊女のファッション、芸者たちの芸能活動なども知ることができる。

しかし私個人的には、似たような浮世絵が多すぎて、夜勤明けの身にはちょっとしんどかった。最後の方になるともはや疲労困憊。それまで行った展示会の中では一番疲れたかな。でも、まあ、それほど疲れるまで一生懸命に観た、ということで、これもまた、行ってよかった、記憶に残る展示会だった。

遅い時間に入場したので、観終わったのは閉館時間ギリギリ。会場内にあった喫茶コーナーもラストオーダーだったが、疲れていたので強引に座り、生ビールとケーキでお疲れさん!それも慌ただしく飲んで食べて、追い出されるようにして外へ出た。その後はもちろん、お待ちかねの入谷飲み。じゃなかった。この日は以前紹介した新規開拓店の「川木屋」へまた行ったので、鶯谷飲みだな。十四代を飲み比べ、名物のカツサンドを食べた。その詳細は字数も一杯なので、ただ一言、「美味かった」とだけ言っておこう。ライターとしては情けない語彙力だけど、まあいいや。

さらにその後もう1軒、そこからほど近くにある「さとうともや」という店に行った。店の名がそのまんま人の名前という変な店で、ここについてもまた色々と書きたいことはあるが、いい加減文字数オーバーなので、「さとうともや」の話はまたいずれの機会に。ということで今回はこれにて。いつものことながら、ダラダラと冗長な文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。