そもそも戸籍とは何なのか? という素朴な疑問を抱いたのでちょっと調べてみた前回の続きです。
戸籍とは、日本人が生まれてから死ぬまでの出生、結婚、親族関係、死亡などについて登録・公証するもので、日本国籍をも公証する唯一の制度。原則として1組の夫婦およびその夫婦の同じ氏の未婚の子を編製としてつくられ、戸籍法に基づく届け出より記録され、本籍地の市町村役場に保管される。と、前回で述べました。
ここで、へ~、そうなんだ、と思ったのが、「原則として1組の夫婦およびその夫婦の未婚の子」が単位となっていること。つまり、現在では普通にどこにでもいるシングルマザーやシングルファーザーといった一人親世代や成人しても未婚の独身者など、1組の夫婦ではない家庭は、すべて原則ではない、というわけですね。もうこのへんからすでに時代に合わなくなってきている、ような気がしないでもないですね。
こうした“夫婦”を単位とする考え方は中国を中心とした東アジア独特のもののようで、ウキペディアにはこう記されています。
「戸籍とは、戸(こ/へ)と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成される公文書である。かつては東アジアの広い地域で普及していたが、21世紀の現在では日本と中華人民共和国と中華民国(台湾)のみに現存する制度である。ただし、中国と台湾では新制度の導入により事実上形骸化している」。
ここでまたまた、え~、そうなんだ、と思いましたね。戸籍というものが古代中国で生まれ、そこから拡がっていった、のはわかりますが、しかし現在は、かつては戸籍制度を取り入れていたであろう周辺国が軒並み廃止しているどころか、戸籍発祥の国である中国も、その流れを汲む台湾も、「事実上形骸化」していて、現在も戸籍制度を採用している国は、世界でただ一つ、日本だけである、という事実。皆さんはご存知でした?
しかも、ですよ。さらにウキペディアを読み込むと、う~ん、どうも難しいので以下、かいつまんで私なりの解釈でもし違っていたらごめんなさいですが、その唯一の戸籍制度採用国である日本でさえも、律令制を制定して戸籍制度を導入した当時(大化の改新もしくは大宝律令が制定された654~701年頃と推定される)は、中国のように「戸に相当する緊密な小家族集団を基礎としたものではなかった」らしく、さらに、平安時代になって律令制衰退後、在地社会の実情とは合致しなかった戸籍制度は「事実上消滅」した、といいます。な~んだ、日本でも消滅してたんじゃん。
では、日本では戸籍ではなくどういう制度で人民を把握していたかというと、ややこしくて詳細の解説は私の能力では無理なので割愛しますが、簡単にいえば、「戸」ではなくて「家」を単位にしていたようですね。たとえば江戸時代の「人別帳」でも、血縁家族以外に遠縁の者や使用人なども包括し、「家」間の主従関係まで記されていました。日本人の「家」を守る、という思想が強固なのはこのためでしょうね。
ところが、明治時代になると、中央集権的国民国家体制を目指すため、「家」間の主従関係、支配被支配関係の解体が急務となりました。そこで戸籍を復活させて、「家」単位ではなく「戸」単位の国民把握体制を確立した、というわけです。つまり、日本の歴史からみると、「戸籍」制度がちゃんと機能していたのはごくわずかの期間であり、別の言い方をすれば、明治時代になってやっと、改めて復活したばかりの、いわば新しい制度、と言えなくもありません。そう考えると、「戸籍」というものをそんな大層にありがたがることもないのかもしれませんし、「戸籍」のない、ということをさほど特別視することもないのかな、なんて考えてしまいます。
最後に、長くなりますが、ウキペディアのこの一文を引用します。ここに当サイトの存在意義があると思いますので。
「このように戸籍制度の復活は封建的な主従関係、支配被支配関係から国民を解放するものであったが、完全に個人単位の国民登録制度ではないため、婚外子、非嫡出子問題、選択的夫婦別姓問題などの“戸”に拘束された社会問題も存在する。これに対し、国民主権時代の現代では、より個人が解放された制度を目指して、戸籍制度を見直す議論も存在する」
現在は国民1人1人に主権がある時代です。「戸」に拘束されて不自由になっている人たちを一刻でも早く解放するために、「戸籍制度」を見直す議論は大いに推進していきましょう。